shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

アイドル恋愛

香月孝史『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』青弓社を読みました。相変わらず、そーゆう系の本ばっか読んでいます。

僕は常々疑問でありました。アイドルの「恋愛禁止」。

恋をできない乙女が、「恋するきもちハート(黄)」を歌うというのは、
将棋のルールは知っているが実際にやったことない人が
ゴキゲン中飛車」について論じるような、なんとも言えない感がございます。

例によりまして、AKB48峯岸みなみが、恋愛禁止条例違反で自主的に丸刈りにした騒動の際、プロデューサーの秋元康はラジオで語っておりました。

いわく。アイドルは規則として恋愛禁止があるわけではない(だって、就業規則に恋愛禁止って明記しちゃうと人権侵害だから)。ただ、たとえば高校球児には一生懸命に練習をしていて欲しいし、白球を追い続けている高校球児は恋愛をしている暇はないんじゃないかと。アイドルもそれと同じなんじゃないかと。

うーむ。釈然としません。あだち充のマンガでは、恋愛をしていても甲子園にいけますし、なんだったら甲子園優勝もできます(『タッチ』『H2』)。

つまり、アイドルの「恋愛禁止」は、明確に禁止にすべき理由があるわけでなく、アイドルの共同幻想を守るために「空気を読んだ」自主規制である、というコトではないでしょうか。
ファンとアイドルとの間には「疑似恋愛」が成立しており、リアルの彼氏・彼女はその幻想を壊してしまう、と。

しかし、僕らはアイドルがうんこをするのは「分かっている」。人間だもの。
分かったうえで、「アイドルはうんこしない!」と言い合っています。
同様に、アイドルが異性(または同性)に「きゅんっ!」とするコトがあるだろうというコトも「分かっている」。
分かった上で、「おれは○○推し!」と応援しています。

現在のアイドルは、ステージ上だけの可愛さというより、
SNSや劇場公演や握手会などの交流を通じてみえてくる、その娘の努力の過程だとか、内心の葛藤だとか、世界観だとか。そーゆうのを、熱心な人は全部見た上で推しているわけです。その感情は「疑似恋愛」というより、アスリートを応援する姿勢に近い気がします。

まあ、人の感情を明確に言語化しようとするなんて野暮ですが、
アイドルとファンの在り方が「疑似恋愛」の一言で片づけられないのであれば、
アイドルが恋愛をするか・しないか・は、あくまでその娘の自己判断に委ねる必要があるかと。彼氏といちゃいちゃしていよーが、魅力とかキャラクター性がずば抜けていればそーゆうアイドルだってアリだと思うのです。
まあ、彼氏持ちがハンディになるか魅力になるかは、その娘次第でしょうけれど。

ちなみに、わたくしは最近はでんぱ組.incを聴いています。
なんと申しますか、「自己表現!」て感じがイイですね。恋に恋する乙女に恋する乙男は卒業しました。

あ。あと、最近ようやく『嵐が丘』を300頁くらいまで読みました。

ギャツビーの時も思いましたが、うーむ、やはり男は金と筋肉か、と思いました。
「やめてー!わたしのために争わないでー!」て感じの設定が延々と続く話、という印象ですが、勝負の決め手は金と筋肉、な気がしてなりません。それと、キャサリンのかまってちゃんぶりが半端ないです。
うーん、もう少し読み進めてみましょう。

また、『増補版 エロマンガ・スタディーズ』をこれから読みます。
わたくし的には、ベタですが、『めぞん一刻』の音無響子さんがなんかエロい、と考えておるのですが、はたしてどうでしょう。

エロとは想像力です。裸体やパンツそれ自体がエロいのではありません。裸体がエロいのであれば、裸婦画はただのエロ本になり、パンツがエロいのであれば、水泳競技とかフィギュアの衣装とかどんなもんよって話になります。
裸体やパンツなどの実存は、我々の深層にある「なんかエロい」感覚を引き出すコードにすぎません。コードが、「なんかエロい」を呼び出し、想像を喚起させた時、はじめてそれはエロになります。

中学生などは経験も少なく、データベースが希薄ですから、
「裸体」や「パンツ」など簡単なコードでもエロを呼び出せるかもしれません。
しかし、大人になってしまうと、データベースも複雑化し、
個々人の趣味・嗜好も固定化してきますから、「裸体」にスペースを入れて、別のコードを入力しないとエロを呼び出せない状況に陥ります。
ルソーが絶望するのも分かる気がします。人間は森に帰って、ボノボのように、ふわふわ~っとした愛の性活を送るところには、もう戻れません。たぶん。

…と、考えているわけですが、はたして。
新たなスキルとして、「文化系下ネタ」をマスターしたい訳ですが、はたして。

消しゴム問題

えー、ちょっと話題に出たもんで、考えてみます。
「消しゴム問題」

場面はこうです。
隣の席の女子が、消しゴムを忘れた男子に対し、
自身の消しゴムを半分に切り、彼へ渡します。
時代設定は中学2年くらいを想定くださいませ。

さてその心とは?

僕は、
「女子は男子に別に好意があるわけでなく、関わりになるのが面倒だから半分に切って差し出しただけ」と回答しました。
異論・反論あるでしょうが、この意見、けっこー女子寄りだそーです。

男子側としましては、消しゴムをくれるというコトは、
「少なからぬ好意があるんじゃね?そわそわ…」というのがベタな意見との由。

イヤー。
もし、本当に女子側に好意があるのであれば、
「消しゴム1個しかないから、一緒に使お?」的な
コミュニケーションをとってくるはずです。
コミュニケーションをとってこないとすれば、パターンは2つ。

1.面倒くさい(大してその男子に興味ない)
2.恥ずかしい(好きだけど、素直になれない、あたしのバカバカっ!)

うん、もう、どう考えたって、たいていは1ですよね。
大して興味のない男子とのコミュニケーションを省略するために、消しゴムを半分犠牲にするという。
ソーシャルゲームで、ゲージを溜める1時間を省略するため、100円のアイテムを買うような心境です。「そんくらいなら、いっか☆」

2はですねー、遺憾ながら、ラノベや少女マンガの世界にしかありません。

また、1の理由により、消しゴムを分割する行動を選択する際も、
彼女の自意識により、別の理由が加わったりもします。

A.「消しゴムをあげる、優しいあたし」演出
B.「リアルの男子に興味ない、硬派なあたし」演出
C.「男子に消しゴムをあげるくらい何とも思っていない、ちょっと大人なあたし」演出

ここら辺はかなり細分化できますし、意識してるしてないの高低もありますが、
まあ、総じて言えるのは、
「この場合の女子は、男子が自分で思っているほど、男子に興味ない」
というコトであります。

しかし、アレですよ、勘違いから始まる恋というのもあるわけでありまして。
「この女子、オレに気があるんじゃね?」から始まる何かが、ないとも言えません。
法に抵触しない程度に、相手にウザがられない程度に、
「もっとかんばりましょう」

ジブリ婆さん

僕は母性というモノを、あまり信じていません。

 

母性を、子どもを慈しむ心で、ふわ~っとその子を包み込む膜、という風に定義してみます。確かに、ある時期の子どもにとって、自分の存在を全的に承認してもらうこと、世間のアレコレから守ってくれる優しい膜、というモノは必要かもしれません。

 

ですが、母性=膜は、実際には戦後くらいにできたもんなんじゃないかなーとか。

たとえば、江戸時代では、武家の子を教育するのは父親の役割でしたし、商人の子は早いうちから丁稚に出されたりして、母性が発揮される場などあまりありませんでした。わりに新しい時代に、「母性」は「作られた」、と考えます。

 

近代社会。父親が労働者として社会で働き、母親「のみ」が家庭を守るべきという、性別役割分担イデオロギーイデオロギーを支える、根拠の一つとして。母親の育児の責任を補強する道具として。「母性」が生まれたのではないかと思うのです。

 

まあ、子どもがカワイイ、ってのは確かにそうなんですけどね。

 

さて、前置きが長くなりました。ジブリです。

 

ジブリにおいては、「老婆心」が決定的な役割を果たします。

それも、「よく知らないじーさん、ばーさん」が、です。

 

千と千尋の神隠し』においては、湯婆婆が千尋が大人になっていく手助け(社会できっちり仕事をすること)をしています。

となりのトトロ』では、メイが失踪した際、村の中で一番メイのことを心配して探していたのはカンタのばーちゃんです。

耳をすませば』で、雫が初めて書いた物語を最初に見せたのは彼氏の誠司くんでなく、彼のじーちゃんでした。

 

じーさん、ばーさんにとって、よく知らない子を手助けした所で、なーんのメリットもないはずなんです。自分の老後をみてもらうわけでもないし、誰かから報酬があるわけでもない。それでも、見返りがなくとも、「老婆心」からその子を手助けしています。

 

この、「老婆心」くらいのマインドが、実はちょうど良いのかもしれません。

手助けを受ける側(千尋やメイや雫)にしても、じーちゃんばーちゃんの優しさに「ありがたい」と感じるところはあるでしょうが、負担にはなりません。見返りを期待されているわけではないのですから。

「老婆心」から受けた優しさは、自分の成長のために使ったり、自分より下の世代に対して返していけば良い。

 

母性という膜に守られる子育てより、老婆心というギフトに頼る子育ての方が、望ましい。ジブリ映画を観ているとそんな気分になります。

 

現在公開中の『思い出のマーニー』もまた、ばーちゃんが一つのキーワードではありますが、これは肉親のばーちゃんですから、ちょっとニュアンスは違うかもしれませんけれど。

 

老婆心、自分も心がけたいものです。

みんな越えてきてるんだ。

働きマン』の弘子が、風邪やら締切やら部下の失踪やらなんやらにやられている時に、それでも週刊誌の原稿をやり遂げようとする決意を抱くに至るコトバ。

そうだよなー、と。

ノマドワーカーとして情熱大陸にも取り上げられた安藤美冬女史の本をぱらぱら立ち読みすると、彼女も勤めていた出版社でミスが多く仕事ができない時期があり、鬱病になったりしたそうだ。
マクドナルドをでっかくしたレイ・クロックの自伝にも、借金まみれになったり騙されたり何だりの話があった。
或いは、業務そのものよりも、人がついてこないのがしんどいって話も聞く。

みんなそれぞれに、越えてきているのである。

なんかこう、その事実だけで、ともあれ頑張れる感じがする。

先日、10~20代読書会つながりの友だちと飲み会をしていた。まあ、面白いよね。シミズが何故、最近の少女漫画が好きなのかを分析してもらったり。『君に届け』『好きっていいなよ。』『アオハライド』、たとえばこの辺の漫画は、ヒロインの「ぼっち問題」からスタートしている。ヒロインはそもそも友だちいないんじゃね?って不安感からスタートしている。ゆえに、君(彼女)と僕(彼氏)の世界観にとどまらず、同性の友だちなどを得ながら、つながりの中で成長していく。

2003年以降、蛯原友里山田優押切もえを擁した『CaCam』の快進撃は、同紙のコンセプト・「モテ」が支えていたわけだけれど、これは男ウケだけじゃなくて、同性からの視線を意識していた。彼だけでなく、同性の友だちが重視される時代なのだ。

話がそれた。とあれ、少女漫画の最近の傾向はヒロインの“成長”。その辺がこう、最近の少年漫画よりもよっぽどぐっとくるのかもしれない。

なんかこう、がんばれ、、、とか思うのである。

さてさてもう一つ。

ブックカフェ読書会に参加させていただいた。

それぞれ好きな本を持ち寄り、紹介するスタイルである。ファシリ役の方の場を和ませるトーク、話を広げる質問。こーゆう感じがいいなあ、と思った。僕の場合、本に関しては、しゃべりすぎてしまうのである。主催はもっとこう、後ろにどんと構えている方が良い気がしている。ファシリの方が構えていてくれるからこそ、安心してトークができるという。

とあれ、自分の範囲外のモノを知れるのが、こういった会の醍醐味の一つである。紹介していただいた6名の作家中、3名しか読んでいなかった。既読の本は『阪急電車』のみ。(読んでいる本が紹介されると、それはそれでうれしい)。

まあ、そんなこんなで楽しくやっています。

少女漫画読書会(もーいっかい!)

少女漫画読書会(その2)をやってきた。
ご参加のみなさま、ありがとうございました。

自分で言うのも何ですが、もはや、面白さのレベルが尋常じゃなくなってきています。カフェにいらした、読書会とはまーったく関係ない一般の方が話を聴いてくすくす笑ってしまうレベルです。僕の自意識過剰とかじゃなく。

ねむようこ『とりあえず地球が滅びる前に』
http://www.amazon.co.jp/dp/4091341101

やまもり三香『ひるなかの流星』
http://www.amazon.co.jp/dp/4088467086

名香智子『レディ・ギネヴィア』
http://www.amazon.co.jp/dp/4091913091

安野モヨコシュガシュガルーン
http://www.amazon.co.jp/dp/4063348598

津田雅美彼氏彼女の事情
http://www.amazon.co.jp/dp/4592120655

中貫えりエクソシストの花嫁』
http://www.amazon.co.jp/dp/4596743126

一条ゆかり『プライド』
http://www.amazon.co.jp/dp/4088651421

一条ゆかり『デザイナー』
http://www.amazon.co.jp/dp/4086172534

ろびこ『隣の怪物くん』
http://www.amazon.co.jp/dp/4063655407


僕は少女漫画の面白さは、「想像力を越えないベタさ」にあると思う。
主人公男子と主人公女子が「運命的に」結ばれている場合、女子力の高いライバルが来ようが、元彼女が来ようが、エリート男子が来ようが、最期には主人公男子と女子がくっつくのである。もしくは、誰ともくっつかずお互いの道を行く(『パラダイス・キス』)のである。
水戸黄門ばりの安心感。ぶれないフォーマット。このベタさを、語り合う面白さ。
また一方で、おそらく女子特有の、陰湿で陰険などろどろ模様も描かれたりする。これはこれで面白い。

■クールピュアなる名言
『ひるなかの流星』をご紹介いただいた際、クールに見えつつ、実は女子が苦手なピュア男子の話があった。これは「クールピュア」と命名された。
なんかこう、お前はもののけ姫かっ!って感じである。
「女は嫌いだが、お前(主人公女子)は好きだ」=「人間は嫌いだ。でもアシタカは好きだ」
なんかこう、お前はもののけ姫かっ!って感じである。

■受け継がれる、「いいヤツは報われない」問題
『レディ・ギネヴィア』に登場。主人公男子はエリート意識ぷんぷんの貴族。彼は結婚している。この妻がね~、いいヤツなんだ。主人公男子は、想いこがれる女子がいるんだけれど、プライドや立場やが邪魔して踏み込めない。そこを、この妻は後押しするわけだ。
もじもじして本命女子にアタック(死語)できない男子に対し、その男子にうすらぼんやり恋心を抱きつつも、その男子の背中を押し、「サンキュ」とか言って男子が本命女子の元に駆けつける背中をみながら「…ばーか」とか言うアレである。
しかし、安心して欲しい。いいヤツ(ライバル女子)にはいいヤツ(好青年)がフォローを入れるものだ。

■女子の喧嘩は終戦ではない。停戦だ。
いわゆる、小学生女子向けの魔法少女モノにおいては、「ホントは友だちになりたいのに、敵同士」的な構図が描かれ、だいたい後の方で「自分自身」との戦いがある。女子の通過儀礼である。
男子の喧嘩は、基本的にガチンコでぶつかるために、短期での終戦になる。
一方、女子はしばしば争いを好まない。できればなかったことにしたい。優しい関係。しかし、自身のなかにある嫉妬心等を抑えきれず、相手に投影してしまいがち。ゆえにもやもやもや~っと「停戦」となる。英国とフランスの100年戦争のごとく、小規模な小競り合いを繰り返す。大変じゃわい。

■ライバル女子巻き髪、からの、髪を切る儀式
主人公男子のことが好きな、ヒロインのライバルの娘は、近年は「巻き髪」である。ゆるふわ系である。すなわち主人公女子は、「女子力」との戦いを余儀なくされる。しかも、巻き髪女子は主人公女子のネガティブ・キャンペーンをはってくる。主人公男子に向けて、巻き髪女子は言う。
「なんか~、○○さん(主人公女子)、さっき○○くん(主人公女子に恋するいいヤツ)と二人であっち行ったよ~。ナニやってんのかな~??」という、アレである。
しかし、巻き髪女子の女子力強化のための努力およびネガティブ・キャンペーンは無駄に終わるので、心機一転、巻き髪を切る例の儀式が執り行われる。だいたい7~8巻くらいである。

■…え?そっから?
彼氏彼女の事情』や『天使なんかじゃない』においては、初めから仲良しグループができており、その「サロン」内での恋愛模様がメインとなっている。
これが近年、『君に届け』が典型だが、友だちを作るところから始めなくてはならない状況となっている。「ぼっち」問題である。
だいたい、初めに友だちになる娘は、ヤンキー系のはずれた娘、モテすぎて女子グループからディスられた娘、等である。
近年の少女漫画(恋愛系)においては、男子との恋愛の他に、友だち作りをしなければならない。
友だち論に関しては、拙著「足し算の友だち、引き算の友だち」をご参照いただきたく。

余談として、「ジョジョ」に出てくる初期のディオは、非常に陰湿な喧嘩の売り方をしている。ジョジョの悪口を言ったり、ジョジョの彼女に「ズキューン」と1週間にわたってキスをしたりする。外側から攻める、なんかもう女子の戦い方じゃんという話。

そうそう、女子の戦い方のところで、『プライド』なる漫画を紹介された。
これはオペラ・バトルを題材にしているのだが、主人公女子は「プライド」を捨て、なりふり構わずコンクールで勝ちにいく。ライバル女子が動揺しそうなコトを、わざわざコンクールの出番前に告げる、とか。
うーむ。陰湿だ。

という、主観に満ち満ちた読書会概要。
少女漫画は、「語られる」ことによってより面白くなるコンテンツだと思っていて、方々でこの話をするたびに、「参加したいです~」と(たぶん社交辞令だろうけれど)お声をいただく。ありがたい限りだ。

僕の切り口は、時に学術チック、時に中二病チックなので、振り幅がでかいけども、その分、たいがいの参加者さんの話を一度引き受けて、場をまわせると思う。
安心して思ったことを語っていただければ、幸甚。
今回3時間の会だったけども、このネタなら夜通しいけるね。

【ネタばれあり】魔法少女まどか☆マギカ

例によって、ネタばれである。
本作は筋の通った話なので、観るのを楽しみにしている人にとって下記の文はおススメしない。ご了承いただきたく。

※参考文献
ゼーレン・キルケゴール死に至る病
リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子
よしながふみ『愛すべき娘たち』
カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女
村上春樹『世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド』
須川亜紀子『少女と魔法 ガールヒーローはいかに受容されたのか』

僕は地頭がよくないので、参考文献のような思考ツールに頼らないと解釈が大変。

































副題に、叛逆の物語、とあるとき、
何の何に対する叛逆だろーかと考えていた。回答はとってもシンプルだった。
叛逆という字義が使われるのは、そりゃ神様に対してである。
前篇で人類からシフトアップすることにより、全ての魔女を救済した鹿目まどか
この物語が叛逆とするなら、それはまどかに対して行われる。
そしてそれを成しうるのは、まどかの「祈り」と同程度の「呪い」を持つ存在。“時間遡行”の能力によって異世界の因果を集め、しかもまどかの救済を願って魔法少女となった暁美ほむらしかいない。

そもそも、彼女たちは何と戦っていたか。
前作において、まどかは、魔法少女→魔女へと移行する際の、希望→絶望と転化するエネルギーを効率的に回収する存在、キュぅべえこと“インキュベーター”を「わたしたちの敵なんだね」と断言している。
ここでの少女たちにとって、成熟した女性は敵であり、自分自身でもある。
魔女は、少女たちの夢の終わりだ。そして悪夢の始まりだ。絶望は死ぬことではなく、死への過程である。断頭台に向かう13階段にこそ、絶望がある。“インキュベーター”は魔法少女たちの感情の転移を回収する文明を持っているが、彼ら自身に感情はない。すなわち彼らは合理的かつ効率的なシステムなのだ。
魔法少女たちが戦っている対象は、絶望した自分自身の未来であり、個別具体性を無視し「全体のための犠牲」を強いるシステムである。
実はこのイメージはずーっとあった。村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』において、一角獣の死を「壁」が吸収していたイメージだ。

では、戦い方としてどーいったモノが挙げられるか。
まどかは、「祈る」。過去・現在・未来の、すべての魔女を消すことを祈り、願う。これはつまり、少女の夢を少女の夢のままに、という試みだ。巴マミ佐倉杏子が魔法少女になった理由は明かされていないが、美樹さやかが願ったのは好きな男子の怪我を直し、もう一度、彼のバイオリンを聴くことにあった。
リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』で、本来、自己複製を目的とするだけの遺伝子を持つ人間が、しばしば利他的な行動をとるのだとしたら、その利他性こそ人間本来の特質かもしれないと述べた。祈りは対価を求めない、「無償の」愛なんじゃないかとか。
さて、ここで「無償の」とつけたのには当然に意図がある。というのは、愛は本源的には「区別」なんじゃないか、という見方ができるからだ。溺れている二人のうち、見知らぬ人よりは、「愛している」人の方を救い出してしまう。この区別。愛は所有欲であり、業であり、呪いとともにあるがゆえに、「無償の」という形容詞をつけて適用範囲を広げないといけない類の概念なのではないか。
ほら、しばしば悪魔たちって、愛が深いじゃない。

「無償の」愛・または慈愛と、「愛」との対立項。
しかも、従来の魔法少女モノにおいては、この対立項は「慈愛=少女たち」「愛=成熟した女性」という形で描かれていた。形容詞なしの愛の側で戦う魔法少女も、しばしば大人の女性によって操られていたりした。自分で責任を負っていなかった。
まどか☆マギカ」での魔法少女は、魔法少女になるかの選択を迫られる。そしてその選択は呪いと絶望という業を負っている。さてさて、どう決着をつける?という話。少女は、人間は、利他的なの利己的なの?という。

ところで、本作中の“インキュベーター”のような態度は、人類でも同じ。
「神の粒子」であるヒッグス粒子も、観測さえできてしまえば物理学の一要素になる。“インキュベーター”の文明度は半端でないので、観測ののち、解釈・制御・管理までいこうとする。すなわち神堕としを断行し、管理しようという。
旬な例でいうと、原発。テクノロジーはいずれ、多大なリスクや廃棄の問題をクリアし、それを制御するかもしれない。それを「したくない」と判断するのは、人間の感情だ。ヒロシマナガサキ、ビキニ環礁、チェルノブイリフクシマと、人はまさにその現場にいる、その人たちの苦難を知っているか知ろうとしている。だから感情がセーブをかける。「何か知らんが、それはよくないことだ」と。
“インキュベータ―”はしかし、感情を持たず、個別の個体の生き死にに関心を持たないので、超長期的に利益があると判断すれば、原発のようなことも実行するだろう。
果たして、これに対して感情を持つ人は、という。



うーん。書き出してみたモノの、人前で話せる段階にないなー、これ。
「学び」には、池上彰方式が良いそうである。すなわち、人に伝え、教えることができたとき、その知識・見識は初めて自分のモノになる、という。

修練が足りぬ。

さんま型、タモリ型

知らない人同士が集まるオフ会でも、まあ、放っておいても会話はなりたつ。

おのおの雑談をする。

だけれど、「面白い」会話にするためには、やっぱり司会的な役割が必要だ。

 

では、その司会の方法。やり方は主に二つ。

 

一つ。タモリ型。

「髪切った?」、質問をする。パサーだね。

人は人に話を聴いて欲しい、自らのことを承認して欲しい。そーゆう欲求に答えるやり方。的確でツボを抑えた質問は相手が意識していなかった面白いポイントを引き出し、周囲へも同様のパスワークをまわすことにより、連帯感ができあがる。

 

もう一つ。さんま型。

これは完全に、自分でゴールを決めに行くフォワードタイプ。

「そうなんや~。俺もな、これこれあれでやなっ!」と、一度、相手の話を引き受け、つまり人からのパスを受け、自分でゴールを決めにいく。

ゴールが決まったと思ったら次のゴールを狙うので、テンポがよく、ライブ感が生まれる。「みんな一緒に歌おうぜーっ!」と言いつつ、メインで歌を歌いきるのはさんま、という。

 

いずれのやり方にも長所・短所があるけれど、共通して大事なのは、「入口」を広くすること。「関係者以外お断り」なサロンは、きっとつまんないよ。

分からなそうな話題になったら、あえてボケてみる。比喩を使ってみる。「これこれこーゆうことっすか?」と解説をつける。テロップを入れる。

ともかく入口から入ってくれさえすれば、パスを出せるし、パスを受け取ることもできる。

 

その他にも司会のタイプはあるだろう。

「守備」に徹して、後ろにどんと構えるタイプもアリだと思う。

その点に関してはまたいずれ。