shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

アイドル恋愛

香月孝史『「アイドル」の読み方 混乱する「語り」を問う』青弓社を読みました。相変わらず、そーゆう系の本ばっか読んでいます。

僕は常々疑問でありました。アイドルの「恋愛禁止」。

恋をできない乙女が、「恋するきもちハート(黄)」を歌うというのは、
将棋のルールは知っているが実際にやったことない人が
ゴキゲン中飛車」について論じるような、なんとも言えない感がございます。

例によりまして、AKB48峯岸みなみが、恋愛禁止条例違反で自主的に丸刈りにした騒動の際、プロデューサーの秋元康はラジオで語っておりました。

いわく。アイドルは規則として恋愛禁止があるわけではない(だって、就業規則に恋愛禁止って明記しちゃうと人権侵害だから)。ただ、たとえば高校球児には一生懸命に練習をしていて欲しいし、白球を追い続けている高校球児は恋愛をしている暇はないんじゃないかと。アイドルもそれと同じなんじゃないかと。

うーむ。釈然としません。あだち充のマンガでは、恋愛をしていても甲子園にいけますし、なんだったら甲子園優勝もできます(『タッチ』『H2』)。

つまり、アイドルの「恋愛禁止」は、明確に禁止にすべき理由があるわけでなく、アイドルの共同幻想を守るために「空気を読んだ」自主規制である、というコトではないでしょうか。
ファンとアイドルとの間には「疑似恋愛」が成立しており、リアルの彼氏・彼女はその幻想を壊してしまう、と。

しかし、僕らはアイドルがうんこをするのは「分かっている」。人間だもの。
分かったうえで、「アイドルはうんこしない!」と言い合っています。
同様に、アイドルが異性(または同性)に「きゅんっ!」とするコトがあるだろうというコトも「分かっている」。
分かった上で、「おれは○○推し!」と応援しています。

現在のアイドルは、ステージ上だけの可愛さというより、
SNSや劇場公演や握手会などの交流を通じてみえてくる、その娘の努力の過程だとか、内心の葛藤だとか、世界観だとか。そーゆうのを、熱心な人は全部見た上で推しているわけです。その感情は「疑似恋愛」というより、アスリートを応援する姿勢に近い気がします。

まあ、人の感情を明確に言語化しようとするなんて野暮ですが、
アイドルとファンの在り方が「疑似恋愛」の一言で片づけられないのであれば、
アイドルが恋愛をするか・しないか・は、あくまでその娘の自己判断に委ねる必要があるかと。彼氏といちゃいちゃしていよーが、魅力とかキャラクター性がずば抜けていればそーゆうアイドルだってアリだと思うのです。
まあ、彼氏持ちがハンディになるか魅力になるかは、その娘次第でしょうけれど。

ちなみに、わたくしは最近はでんぱ組.incを聴いています。
なんと申しますか、「自己表現!」て感じがイイですね。恋に恋する乙女に恋する乙男は卒業しました。

あ。あと、最近ようやく『嵐が丘』を300頁くらいまで読みました。

ギャツビーの時も思いましたが、うーむ、やはり男は金と筋肉か、と思いました。
「やめてー!わたしのために争わないでー!」て感じの設定が延々と続く話、という印象ですが、勝負の決め手は金と筋肉、な気がしてなりません。それと、キャサリンのかまってちゃんぶりが半端ないです。
うーん、もう少し読み進めてみましょう。

また、『増補版 エロマンガ・スタディーズ』をこれから読みます。
わたくし的には、ベタですが、『めぞん一刻』の音無響子さんがなんかエロい、と考えておるのですが、はたしてどうでしょう。

エロとは想像力です。裸体やパンツそれ自体がエロいのではありません。裸体がエロいのであれば、裸婦画はただのエロ本になり、パンツがエロいのであれば、水泳競技とかフィギュアの衣装とかどんなもんよって話になります。
裸体やパンツなどの実存は、我々の深層にある「なんかエロい」感覚を引き出すコードにすぎません。コードが、「なんかエロい」を呼び出し、想像を喚起させた時、はじめてそれはエロになります。

中学生などは経験も少なく、データベースが希薄ですから、
「裸体」や「パンツ」など簡単なコードでもエロを呼び出せるかもしれません。
しかし、大人になってしまうと、データベースも複雑化し、
個々人の趣味・嗜好も固定化してきますから、「裸体」にスペースを入れて、別のコードを入力しないとエロを呼び出せない状況に陥ります。
ルソーが絶望するのも分かる気がします。人間は森に帰って、ボノボのように、ふわふわ~っとした愛の性活を送るところには、もう戻れません。たぶん。

…と、考えているわけですが、はたして。
新たなスキルとして、「文化系下ネタ」をマスターしたい訳ですが、はたして。