shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

【ネタばれあり】魔法少女まどか☆マギカ

例によって、ネタばれである。
本作は筋の通った話なので、観るのを楽しみにしている人にとって下記の文はおススメしない。ご了承いただきたく。

※参考文献
ゼーレン・キルケゴール死に至る病
リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子
よしながふみ『愛すべき娘たち』
カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女
村上春樹『世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド』
須川亜紀子『少女と魔法 ガールヒーローはいかに受容されたのか』

僕は地頭がよくないので、参考文献のような思考ツールに頼らないと解釈が大変。

































副題に、叛逆の物語、とあるとき、
何の何に対する叛逆だろーかと考えていた。回答はとってもシンプルだった。
叛逆という字義が使われるのは、そりゃ神様に対してである。
前篇で人類からシフトアップすることにより、全ての魔女を救済した鹿目まどか
この物語が叛逆とするなら、それはまどかに対して行われる。
そしてそれを成しうるのは、まどかの「祈り」と同程度の「呪い」を持つ存在。“時間遡行”の能力によって異世界の因果を集め、しかもまどかの救済を願って魔法少女となった暁美ほむらしかいない。

そもそも、彼女たちは何と戦っていたか。
前作において、まどかは、魔法少女→魔女へと移行する際の、希望→絶望と転化するエネルギーを効率的に回収する存在、キュぅべえこと“インキュベーター”を「わたしたちの敵なんだね」と断言している。
ここでの少女たちにとって、成熟した女性は敵であり、自分自身でもある。
魔女は、少女たちの夢の終わりだ。そして悪夢の始まりだ。絶望は死ぬことではなく、死への過程である。断頭台に向かう13階段にこそ、絶望がある。“インキュベーター”は魔法少女たちの感情の転移を回収する文明を持っているが、彼ら自身に感情はない。すなわち彼らは合理的かつ効率的なシステムなのだ。
魔法少女たちが戦っている対象は、絶望した自分自身の未来であり、個別具体性を無視し「全体のための犠牲」を強いるシステムである。
実はこのイメージはずーっとあった。村上春樹世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』において、一角獣の死を「壁」が吸収していたイメージだ。

では、戦い方としてどーいったモノが挙げられるか。
まどかは、「祈る」。過去・現在・未来の、すべての魔女を消すことを祈り、願う。これはつまり、少女の夢を少女の夢のままに、という試みだ。巴マミ佐倉杏子が魔法少女になった理由は明かされていないが、美樹さやかが願ったのは好きな男子の怪我を直し、もう一度、彼のバイオリンを聴くことにあった。
リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』で、本来、自己複製を目的とするだけの遺伝子を持つ人間が、しばしば利他的な行動をとるのだとしたら、その利他性こそ人間本来の特質かもしれないと述べた。祈りは対価を求めない、「無償の」愛なんじゃないかとか。
さて、ここで「無償の」とつけたのには当然に意図がある。というのは、愛は本源的には「区別」なんじゃないか、という見方ができるからだ。溺れている二人のうち、見知らぬ人よりは、「愛している」人の方を救い出してしまう。この区別。愛は所有欲であり、業であり、呪いとともにあるがゆえに、「無償の」という形容詞をつけて適用範囲を広げないといけない類の概念なのではないか。
ほら、しばしば悪魔たちって、愛が深いじゃない。

「無償の」愛・または慈愛と、「愛」との対立項。
しかも、従来の魔法少女モノにおいては、この対立項は「慈愛=少女たち」「愛=成熟した女性」という形で描かれていた。形容詞なしの愛の側で戦う魔法少女も、しばしば大人の女性によって操られていたりした。自分で責任を負っていなかった。
まどか☆マギカ」での魔法少女は、魔法少女になるかの選択を迫られる。そしてその選択は呪いと絶望という業を負っている。さてさて、どう決着をつける?という話。少女は、人間は、利他的なの利己的なの?という。

ところで、本作中の“インキュベーター”のような態度は、人類でも同じ。
「神の粒子」であるヒッグス粒子も、観測さえできてしまえば物理学の一要素になる。“インキュベーター”の文明度は半端でないので、観測ののち、解釈・制御・管理までいこうとする。すなわち神堕としを断行し、管理しようという。
旬な例でいうと、原発。テクノロジーはいずれ、多大なリスクや廃棄の問題をクリアし、それを制御するかもしれない。それを「したくない」と判断するのは、人間の感情だ。ヒロシマナガサキ、ビキニ環礁、チェルノブイリフクシマと、人はまさにその現場にいる、その人たちの苦難を知っているか知ろうとしている。だから感情がセーブをかける。「何か知らんが、それはよくないことだ」と。
“インキュベータ―”はしかし、感情を持たず、個別の個体の生き死にに関心を持たないので、超長期的に利益があると判断すれば、原発のようなことも実行するだろう。
果たして、これに対して感情を持つ人は、という。



うーん。書き出してみたモノの、人前で話せる段階にないなー、これ。
「学び」には、池上彰方式が良いそうである。すなわち、人に伝え、教えることができたとき、その知識・見識は初めて自分のモノになる、という。

修練が足りぬ。