shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

第1回 少女漫画読書会

「少女漫画」読書会を開催した。
以下が、紹介していただいた本である。

東村アキコ『海月姫
http://www.amazon.co.jp/dp/4063407446

水木和佳子『イティハーサ
http://www.amazon.co.jp/dp/4150306397

アルコ『スターレスブルー』
http://www.amazon.co.jp/dp/4088473779

アルコ『ラブレター』
http://www.amazon.co.jp/dp/4088475194

清水玲子『WILD CATS』
http://www.amazon.co.jp/dp/4592142705

清水玲子『22XX』
http://www.amazon.co.jp/dp/4592887115

菅野文『オトメン(乙男)』
http://www.amazon.co.jp/dp/4592184149

はやかわともこ『ヤマトナデシコ 七変化♡』
http://www.amazon.co.jp/dp/4063412105

篠原千絵『海の闇 月の影』
http://www.amazon.co.jp/dp/409191201X

川原由美子『観用少女』
http://www.amazon.co.jp/dp/4022131411

夢路行夢路行全集17 言葉にできない』
http://www.amazon.co.jp/dp/4758051372

萩尾望都バルバラ異界
http://www.amazon.co.jp/dp/4091670415

志村志保子女の子の食卓
http://www.amazon.co.jp/dp/4088566483

よしながふみ『愛すべき娘たち』
http://www.amazon.co.jp/dp/4592132955


ご参加いただいたみなさま、ありがとうございましたー。

主宰である僕がたぶん一番楽しんでおりました。

何が楽しいって、「少女漫画の主人公男子は素直じゃなく主人公女子にいじわるな態度をとりがちであり、もじもじしている間にスマートな感じの学友が主人公女子に接近し親密になり、そうした現状に主人公男子さらにイラッとする」的な、『少女漫画あるある』を、何も出口を設定せずにきゃっきゃ言い合うのが楽しい。

そして、少女漫画の裾野はすげー広く、歴史はめっちゃ深いということが分かった。大変に勉強になった。

ポイントを箇条書き。

・少女漫画の根底には「変身願望」がある。
暗い系女子がクラスの人気者になる。特殊能力やら魔法を使って変身する。等。

・事情を抱えた憂いある男子は必須。
だいたい、付き合う男子は家族、元カノ、友人の死など、ぜってーに何かを抱えている。主人公女子はそんな男子に献身的に尽くしたい欲求がある感じかしら。
サングラス男子には特に注意。

・SFや特殊能力バトル。大半は肉親と戦う。
双子同士とか。そもそも、特殊能力の取得は血縁による処が大きいから、これは少女漫画に限らないのかもしれない。

・転校生問題。
都会から越してきた転校生は、田舎を馬鹿にしがち。逆に田舎の子たちは、都会からの転校生を調子こいてるといじめがち。ここで、いじめのリーダー格の子がちょっといい場面を主人公女子とかに見せると、恋のメロディ~。
別名、「ヤンキーが雨の日に子猫を拾ってくる効果」

・ぐろい、ぐろい、ぐろい。
なかなかにハードな側面がある少女漫画もある。果たしてそれは「少女漫画」なのだろうか。まことに射程が広いものである。

・きゅんきゅん
思春期は魔物である。自意識が強く、自分がナニモノかよく分かっていないがゆえに相手を傷つけ、自分を傷つける。「もうっ、何でいつも素直になれないのっ!わたしの馬鹿馬鹿っ!」という、アレである。

恋愛、家族、ファンタジー、ご飯、友情、歴史ロマン、バトル、変身、お仕事。
嫉妬とか情欲とか憤怒とか自意識とか。

さまざまな要素があり、さまざまな分野があるのが、
少女漫画の魅力だと僕は思っていて、
これは第二回をやらざるをえない。

マルクスもケインズもふっとんだよ。

課長島耕作』より。初芝電産本社の部長が営業先で“かっぽれ”を踊るシーンでの台詞である。「分かるっ!」と思った。幸いにして“かっぽれ”を踊る場面には遭遇していないし、これからも当たることはないだろうけれど、マルクスだのケインズだの勉強したことを鼻にかけているうちはまだまだサラリーマンとして青い。

つまり、僕もまだまだ青いのである。

ワンピースとか読む。海賊は弱い紐帯でつながっているため、各分野のエキスパートでないと勤まらない。剣豪だとか、航海術持ってるだとか。何も持っていなければ低賃金労働者Aとして1コマで倒される。厳しいフリーランスの世界である。

海軍。ここはまがりなりにも人を育てる機能がある。努力次第で体術・六式をマスターして昇進できる。コネとか悪しき風習もあるものの、平凡な人間が世界を生きていくには良い会社風土である。社長=元帥が変わると風習が変わる上位下達の軍隊ではあれど。

それぞれに相性があるし、それぞれにメリット・デメリットがある。
フリーでやりつつ海軍と共闘(七武海)もあるし、海軍をやめてフリーになる手もある。その手段を選び、その場所で生きていくことを決める際に、自分が何を持っていて何ができて何を成そうとする意思があるかの見極めが肝要だよなとワンピースを読んでつくづく考える。

で、その場所の見極めは、あんまり時流とか意識しすぎないようにしたい。

たとえば、これから先進国は高齢化がすげー進むので、介護分野が伸びる、という話がある。確かに60代以上の高齢者がボリューム・ゾーンになるのはそうなのだけども、じゃあその人たちが介護を受けられるだけの貯蓄を持ちあわせているか。また、介護保険も現役世代が支えきれず、特定の介護施設に要介護者を集約し、介護分野の支出削減を行う可能性は。医療の進展により、予防が効いて“生涯現役”が増える割合は。等々もんやり考えていくと、単純な利益予測だけで介護を今からはやれないなぁと思ったり。ホントに好きな仕事ならばやると良いけれど。

そんなヨコシマな人間であります。

今出てきている社会起業家。サービスが先、利益は後。の考え方はスタートアップ時には良い考え方ではある。とにかく市場を見つけること、顧客を見つけることに注力するからだ。で、その後、事業を軌道に乗せるには、それなりの考え方ができる大人が必要になってくる。アップルもグーグルもフェイスブックも、途中からそんな大人を迎えいれた。

まだ“かっぽれ”をやる覚悟はできていないものの、大人になるべく精進である。

キラキラ腐女子。。。

うーむ。

「キラキラ腐女子」って何なの?
http://www.j-cast.com/2013/10/08185732.html?p=all

言ってみればあれですか、イオンが農業参入しましたとか、そんな感じ?
え?お嬢さん、小売………だよね?みたいな。
そこ参入しなくても十分大手だよねみたいな。

モノゴトの垣根がなくなり、カテゴライズが不毛になり、フラット化していく。
キレイな外見で社交性もあり明るい感じなのにオタク趣味がある場合もあれば(『乃木坂春香の秘密』『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』)、残念な感じの見た目でオタク趣味を持っている場合もあれば(『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』)、浮かばれない恰好の感じでありながら趣味はなんかきゃぴってる感じさらにはキラッ☆とした見目に違わず趣味も「マカロン作り」等である場合(『俺物語』)と様々だろう。

…うん?
あれ、見た目残念な感じなのに趣味がきゃぴってる例が思いうかばぬ。
ここで言う見た目はいわゆるナチュラルな美っ!とかそーいうのよりかは、なんつーか、「オサレ」にどれだけのリソースをつぎ込んでいるか。ヘアスタイル、メイク、ファッション、アクセサリー、エトセトラエトセトラ。

んー。趣味がきゃぴってるとすると、それは必然的に外見にも現れ、外見に出てくると他人から「蝶よ花よ」とか言われるので自信がつき、コミュニケーションスキルも上がり、見た目残念な感じにはならない、のか。

いずれにしろ思うのは、時間という資源をどこに振り分けるか、という至極当たり前の結論である。

キラキラした感じになるには、時間がかかる。人によっては電車の中・移動時間すらも無駄にしない徹底ぶりである。
また、オタクレベルを上げるのにも時間がかかる。文献を読み、同志と意見交換をかわし、イベントに参加し、ネット情報を確認しなければならない。しょせん血ぬられた道である。

ミヒャエル・エンデは名作『モモ』において、
いま働きまくって時間を貯金すれば・将来幸せになれるよ、という近代の呪いを「時間泥棒」と表現した。
そしてその将来の幸せは、マイホームやクルマや家具家電がある程度の層に行き渡ったことで「今」に実現された。
んで、今を生きる人たちは、過去の人たちが貯めた時間を猛烈に消費している。過去の人らが死ぬ思いで掘り起こした炭鉱・油田を使い、或いは公共交通機関を使い「スケジュールをあけちゃダメだ」という強迫観念のもとに旅行にレジャーにでかける。
バーチャル空間のインフラをフル活用し、一人になっちゃダメだとばかりにSNSをし2ちゃんねるを徘徊したり動画をみたりする。
或いはまた近代のもう一つの呪い、すなわち職業選択は「自由」なんだから、今努力しないとマジで飢えて死ぬよ?という強迫に突き動かされて勉強にオシャレに人脈作りに必死になる。

本来、時間の使い方も「自由」なはずなのに。

キラキラ腐女子という話をみたとき、
メンズノンノのあれは意図的なバッシング作りのためのやらせかもと推測すると同時に
あー確かに、仕事に家事に子育てに介護にオシャレに財形貯蓄に趣味に何ナニにすげー頑張っちゃう人っているから、「ありうるな」とも思った。
キラッ☆と腐女子の両立、じゅうぶんありうるよ。

オタクとは、好きなモノゴトに時間というリソース(資源)を全力投下した者の総称である。

…。あ、いやいやごめんごめん、オタクと腐女子は違うんだよね。

意識高い社会人(笑)

OP読書会にて、ファシリやってきた。
今回もファシリすげーやりやすかった。参加者さんに感謝である。僕が読書会ファシリやるときは、議論の目標を一つにまとめるより、あっちこっちに話を拡散させている。そーゆうやり方をするようになったのは自分のレシーブ力(他人の話を拾う技術)と、ポイントをしぼったコメント力(言い換えやまとめ)に自信がついたから。もう完全に天狗である。

まあしかし、全参加者さんに100パー満足してもらうってのは不可能なので、どうしても最大公約数的な楽しみを追及する方向へ向かう。また、ファシリの方法論はその人のパーソナリティによってかなり異なるので、他の方のファシリ論を研究していきたい。

あれですね。ここまで読むと「意識高い社会人(笑)」ですね。

けれども、もう僕なぞは、読書会は完全に趣味と割り切っています。
SNSで人脈を広げても、それはその人の年収やキャリアアップにはほぼほぼ影響しないと思う。単純に純粋に、社会人になってからできる友だちってのも楽しいよねってぐらいに割り切っていないと、なんかこう、「フォロワー○○人」自慢だとか、セルフブランディングだとか、痛い感じに、きっとなる。
というような話は、常見陽平氏の著作によく書いてあるのだけれど、僕自身ムダに尖ってて(まー現在も尖っているが)、前のめりに勉強会に参加していた時期があったから実体験を伴って語れる分野だ。
ネット上の、リア充(または、リア充を満喫しているようにブランディングしている)人は存外少数派だし、それが自分にとって楽しいかは疑問だ。
という状況下で僕が見つけた楽しみは場の仕切りだった。
所々、未熟で未完成であるけれど、まーこれは楽しい。だって、申し訳ないけれど、一番しゃべってるもの。
ちはやふる』の最新刊において、原田先生がかるた会を結成した理由を「『私が』名人になるため」と臆面もなくぶっちゃけたけれど、でも同時に「みんなに助けてもらって強くなる」的なことも言っていて、あー分野は違えどまさに僕も同感です原田先生!と思った。
課題本を読みながらネタを考えて、実践してウケる。楽しい。
その場のライヴ感覚で、話を拾って拡散してウケる。楽しい。
真面目コメントの直後に、ヲタトークしてギャップできてウケる。楽しい。
ともかくも、ウケるのが楽しい。
鉄板ネタもできてくる。自己啓発系批評、女子会2.0、モテの変遷。ネタは話せば話すほど流暢に、情感をこめて語れるようになってくる。その場に合わせて微調整は必要だけれど、これは鉄板ってネタをいくつか持っておくと主催やってても安心感が違う。気まずい空気・スベる空気になっても、このネタなら、って武器があるのとないのとではけっこー心境の余裕度が異なるのだ。
あと、アンテナは広めに。
『FRIDAY』を読む。マリコ様が選挙で引退を表明した後、AKBメンバーに声をかけてもらっている。それぞれのキャラに基づいた、コメント。たとえば、元AKBのあっちゃんからは、「(引退発表すると言っていないのに)わかってたよ。」と声をかけられている。何ですかその神様ポジション?とはいえ、これがあっちゃんだ。神7のナンバーワンセンターだ。“神様”としてAKBを卒業した彼女のキャラクターだから出るコメントだ。こうしたコメントを世に出すことで、またイメージが再帰的に再構成されていくわけだ。
という感じで、広めに手を出しておくと、飲み会でもきっと困りません。

足し算の友だち、引き算の友だち

唐突ながら、僕の友だちは「足し算」が多い。
特に用もないのに集まってべらべらどーでも良いことをしゃべる。
呑みにいく。カラオケに行く。ボーリングに行く。映画とか美術館とか温泉とか行く。一緒に山登ったりど深夜までファミレスで粘ったりボルダリングとかする。
その繰り返しの足し算で、いつの間にか何だか友だちになっている。

情報化社会で交流がバーチャルになっても、というかなったからこそ、対面で「会う」ことの重要性は増しているそうだ。西野カナら「ギャル演歌」でも歌われているように、人と会うことには何か特別な力が働いていて、ともかく何をしなくても一緒にいる、ってのを続けていくうちにいつの間にか友だちだ、というのが僕の友だち観。

一方で、「引き算」の友だちがいる。
TwitterやらLINEやらで、全方位的な人付き合いの圧力がある。
「昨日、あのテレビ観たー?」という話題ではなく
「あのTwitterでのやりとり超ウケるよね」になっている。
イマ、ココにいない子は、リカバリーがききづらい。
ライブ感。
そうした全方位的な人付き合いのなかで、たとえば喧嘩をする。失言をする。悪意はなくとも相手を傷つけてしまう。
もう一度言おう。リカバリーがききづらい。
失点がつく。「引き算」になる。その引き算が赤点ラインを越えると、「友だちからはずす」ボタンが押され、イマ、ココの友だち空間に参加できなくなる。
以上の引き算競争を経て、勝ち抜いた子が「親友」である。

僕は保守派のオタク野郎なので、思う。
「引き算」の友だちは、どーにも薄っぺらくないだろーか、と。

「ぼっち問題」

パターンとしては、対人コミュニケーションが苦手でぼっちになる系。始業式から休んで出遅れた系。モテすぎて「男子に色目使ってんじゃねーよ」と妬まれる系。自意識過剰で自分を特別だと勘違いしてしまうキモチワルイ系。

ちなみにぼっち同士が傷の舐めあい的に集まっても、それぞれぼっちのままなので、それは「ぼっちーず」である。(入間人間

聞くところによると、このぼっち問題は深刻であるらしい。

僕は幸いにして(ありがたいことに)友人に恵まれ、かつ自分が一人でもわりに平気な性分だったもんで、具体的かつ説得力ある話はできないけれど、ぼんやりとした方向としては「足し算」の友だちでいくしかないんじゃないかなーと。

なんかこう、何かに「共感」できたら、その時点で友だちである。
ジョジョとか読んでたらもう友だちである。
その共感の共有を足し算していって、いやまあ友だちってのも会う回数=親密度ってわけでもないんだけれど、ともかく足し算をしていけば、マイナス点も「あーそれはナシだよね(笑)」とか言い合える関係ができてると思う。

んで、ここでポイントが、
本音で全部をさらけ出すこと=正しいこと
ではないという。
この点は価値判断が分かれてくると思うけれど、
たとえば「オレはあの女子が好みだね、これこれこの点がさ~」という話題に対して「私は女性を品評するということに対し、遺憾の意を表明する」とか。
果たしてこの態度は正しいだろうか。

他人同士は、必ずしも分かり合えない。それは親子レベルのつながりでも一緒。
そこで、特に大人になってくるとそうだけど、全部ぶちまけることが必ずしも美徳にはならない。ここら辺の考え方は、僕は『常務 島耕作』における島耕作と出発集団CEO孫鋭の会話に影響を受けている。

だからこそ、子ども時代には本音を全部ぶちまけて痛い目を見ることが肝要なのだ。大いに傷つきなさい。大いに傷つけなさい。そんで青春のアレコレを思い出してど深夜に「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁあああああっっっ!!!!」とか叫びなさい。とか思う。なんかこう、自分でも気づかなかった好意を思わず相手の前で告げてしまい、そうぽろっと言ってしまった自分の言動に恥ずかしくなり、カーッとなって「………帰るっ!!!」というシチュエーションが最近の僕のツボです。
『隣の怪物くん』のシズク女史と『ぼくらはみんな河合荘』の律女史ですね。うんうん、帰りなさい帰りなさい。

以上である。

『あの花』と、笑いについて。

『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』を観てきた。

垣根涼介『人生教習所』という本に、初対面でよくお互いを知らない人に対して、いきなりデリケートな結婚の話とかを始めるのは大人のタブー、的な話があった。大人になるにつれ、社会に順応するにつれ、僕らには制限がかかる。聴いていいコトと聴いて悪いコトができる。「こうあるべき」が増える。我慢を覚え、忍耐を覚え、辛抱を覚える。

『あの花』を僕は、メタ視点で批評家風情で評価することができない。
これは大人未満の話だし、ポケモン(みたいなモノ)やZONE『Secret base』とともに語られる彼ら彼女ら超平和バスターズの話は26歳の僕にとってストライクすぎる。だって聴いてたもん中二病じゃなくて中二ぐらいの時にZONEとか。

基本的に僕は、圧倒的に肯定の物語が好きだったりする。

「しっかりものの、あなる」
「おもしろい、ぽっぽ」

など、など。子どもの言葉は、ストレートだ。大人の「こうあるべき」の言葉と違い、含蓄や形式はなくとも、力強さに満ちている。たとえば人の人格が周囲の言葉によって徐々に徐々にできていくとして、まったく人格がふにゃふにゃしている時期に時代にそんなストレートな全肯定の言葉のやり取りをしていたら、そりゃ「いつまでも仲良し」だよね。

まあ、冷めたこというと物語中の子どもの言葉は大人が考えた「子どもらしい言葉」ではある。ただ僕はそうした「子どもらしい言葉」に単純に純粋に感動できる。言葉はある程度、属人的(「誰が」言うかに左右される)ものではあるけれど、本質としては言った当人の意図や意志を離れ、言葉それ自体の力を持つようになる。感動したよ、特に全力で「めんまーっ!!!」ってみんながめんまを探すシーンに慟哭したよちくしょうっ!

さて、こっから余談。

40代、50代で、僕が面白いと思う人は、えてして子どもっぽい側面を持っている。「ばーかばーか」とか言うし。同時に、経験ある知的な話もできるし、下ネタも問題ない。とかく間口が広い。

面白い大人になりたいもんである。

人志松本までいくと、もう狂気だけどね。
たとえばこの前、「リンカーン」の最終回で、某芸人が履いていた靴下を評して「後輩の彼女が履いてたヤツやっ!」。普通だったら、「女子かっ!」と行くところ、モノゴトに対する感受性が異常に強い松本は「後輩の彼女が履いてたヤツ」と表現する。一般人が見過ごしていくモノ・コトを発見する才能と、思いもかけないけれど言われたらすげー納得できる共通点を瞬時に言える才能。その才能がゆえに他の芸人から松本はストイックと称され、40歳まで結婚もしなかった。

まあ、僕は人志松本流は無理だし一般ピープルであるので、素朴に自分が面白いと思うモノをゆるゆる追いかけよう。

ネタを面白くできるかどうかの分水嶺は、「接続」と「着眼点」だと思う。

フランツ・カフカ『変身』を妹萌え要素から語るっ!とかね。
ラジオのラジオネームでも、たとえば「ましゅまろ大臣」とか「さくらんぼ分銅」とか、やわらかいモノと硬いモノの接続が印象に残るし。
着眼点は、そうねー、問題設定とか。「モテテク20」とかだとありきたりだけれど、そもそも「モテとは何か」だと面白いと思うんだ。モテテクはえてして異性からのちやほやを前提とした技術論(しかも使えない)になりがちなところ、モテるとは誰に対するモテか、どういう状態か、王道モテと邪道モテにどういった差異があるか…なーんて問題設定にすると面白いんじゃないかなーとか。

あとは、ベタを上手く活用する、伏線を利用する、あえて自分を一段落として道化になる、とか小手先のモノはいくらかある。ただ、自分のコトを過信しているとえてしてつまらない奴になるので気をつけたい。貴方貴女の周りに、ドヤ顔で「はい噛んだ~」とかうんこなツッコミをするヤツはいないだろうか?京極夏彦の実験的小説風に言うなら『死ねばいいのに』。安全圏から評論家気取りのヤツに、笑いをとる資格はない。ヤツは、ヤツらは、「なんで大事なここで噛むねんっ!」と状況を説明する能力も、身体ごと椅子等から転げ落ちる気概も、さらに自分も噛んで笑いをかぶせてみる等の機転もなく、ただ「はい噛んだ~(どう?面白い俺)」と言うのだ。エヴァンゲリヲン旧劇場版のラストシーン風に言うなら「キモチワルイ」

ばーかばーか。

※この表現は実際の個人・団体とは一切関係ございません。シミズの友だちは幸いにして幸甚にして面白く魅力的な方ばかりです。というかシミズは性質が根暗で社交性も皆無なため、『死ねばいいのに』という方とはプライベートでお話できません。あしからず。

少女漫画以外のコト。

近ごろ、少女漫画少女漫画!とうるさかったので、少女漫画以外のことを書いとこうと思った。

■お食事について。

オサレランチとかで、お肉をまったく使わないヘルシーな菜食料理とか出すとする。
菜食主義の思想を下っていくと、輪廻転生までいく。
「おいらの祖母ちゃんがひょっとしたらこの豚ちゃんに転生してるかもしれない」という観念がある文化圏では、動物を食べることが人食いになってしまうので、菜食主義にならざるをえない。
あと、お肉を食べない人たちはあんまり量も食べない。
これは歴史的にみるとけっこー珍しい現象で、フランスの宮廷料理にしろ中国の満漢全席にしろ、エリートはとにかく量と種類を重視する。交易が制限されていたころは、遠くからたくさんの食べ物を持ってこれることがステータスだったからだ。
例外は日本の懐石料理。ここは次につなげよう。

■小さい。

日本は小さくすることに命をかけている。懐石料理もちょこんとしたそれぞれの料理に魂をこめる。千利休は小さい茶室の中に小宇宙をみた。トヨタたちは小型車で北米を席巻し、ソニーはウォークマンで世界の音楽視聴をかえた。

雛の調度。蓮の浮華のいと小さきを、池より取り上げたる、葵のいと小さき、なにもなにも、小さきものは、皆うつくし。―『枕草子

小さいモノが好きだ、というのは日本独自ではないだろうし、日本内でも大きいモノを好む思想もあるだろう。ここで挙げた例はあくまで恣意的だ。
それでもなお、ビッグデータだグローバルだ何だと言いつつ、その実は個人の嗜好に細かくニッチ分けされていく市場においては、こうした小ささ・細かさにフォーカスを当てる感性は、世界に先駆けた日本の先進性の一つかもしれない。

■日本の先進性

といえば、AVがその一つしてあげられる。某AV女優が中国でめっちゃフォローされてるとか、輸出産業の一つになってるかもしれないよね。ストリーミング再生の技術はエロ動画が生み出したと言っても過言ではないそうである。
『AV女優の社会学』という本があって、これによると彼女たちは常に「なんで可愛いのにAVなんてやってるの?」という視線・興味にさらされている。
その質問は当初から、ある程度の答えを期待された質問だ。「清楚に見えて実は…
」とかね。彼女たちもエンターテイナーなので、そうした期待された回答をしていくのだけども、それは一見して自由がないように見えるのだけども、実はそうした期待された回答を「饒舌に」彼女たちは話していることに気付く。自由意志はふわふわした無制限の場に現出するモノでなく、他者の視線にさらされることによって自己を確認し、他者に向けて語ることによって創り上げるものなのでは?

■人妻モノ

AV女優の話をしたので、ついでに人妻モノについて。
生物進化論風味の話をすると、オスは「自分の子孫を残さなきゃっ!」という本能が働くので、他のオスの手がついていると思われるメスをみると、興奮するらしい。あいつのアレをどかして俺のを残さなきゃ、とか思うらしい。ムクドリとか、そうらしい。
源氏物語』。プレイボーイの源氏が惚れたのは、人妻の(そして不美人の)空蝉である。「完成された女」に熱を上げるのは洋の東西を問わない。『初恋』から『椿姫』から『アンナ・カレーニナ』から、むんむんした青年たちは年上の姉ちゃんないし人妻を求める。
進化生物学と、人類学・心理学・文学の見地から突き詰めてみるとこの分野は面白いんじゃないかなーと考えていて、でもまだ不明点ばかりなので詳細はまたいつか。

■ジャズだとか。

売春つながりでいうと、ニューオーリンズの売春宿から広がっていったジャズを連想する。南北戦争が終結し、大規模プランテーションの労働力としてアフリカから渡ってきた黒人たちは、奴隷から解放され故郷の音楽を思い出そうとする。けれども時は過ぎすぎていて、言語も楽器も、すなわち欧州の“近代”とそれらはミックスせざるをえなかった。それがジャズだ。
まーこれも、「ロック」と同じで、定義はできない。イメージがあるだけだ。
なんこう色々あり、第二次大戦後、マイルス・デイヴィスが登場する。
彼は『マイル・ストーンズ』において<モード奏法>を取り入れ、それまでの欧州風合理主義、複雑なコード進行から逃れる手法を確立した。原点回帰だ。
彼の後半は、時代性もあったのだろう、ユングの<元型>に近いものを追及した。違う地域・違う文化圏にいるはずの人たちにも、共通するイメージがあったりする。それが<元型>だ。音楽においても人類共通のリズムがあるはずであるとか。これは70年代の「ハーモロディクス」に引き継がれ、ちょっと最近だと伊藤計劃虐殺器官』とかね。

■本の読み方

と、いろいろ書いてみたけれど、
読書会に参加してから、本の読み方が変わったなーと。
「あ、ここはネタになるだろうか」と実用性に着目するようになったし、ファシリやり始めてからはトーク・セッションのつなぎ目を創るために色んな知識をつけようと意識するようになった。
やっぱり、話を気持ちよくするには、一度その話を引き受けることが必要で、それは「うんうん」と傾聴するやり方もありだろうけれど、基礎っぽい知識だけ抑えといてフォローするやり方もありじゃね?と。

うーん。休みだからはしゃいでしまった。ねよ。