shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

足し算の友だち、引き算の友だち

唐突ながら、僕の友だちは「足し算」が多い。
特に用もないのに集まってべらべらどーでも良いことをしゃべる。
呑みにいく。カラオケに行く。ボーリングに行く。映画とか美術館とか温泉とか行く。一緒に山登ったりど深夜までファミレスで粘ったりボルダリングとかする。
その繰り返しの足し算で、いつの間にか何だか友だちになっている。

情報化社会で交流がバーチャルになっても、というかなったからこそ、対面で「会う」ことの重要性は増しているそうだ。西野カナら「ギャル演歌」でも歌われているように、人と会うことには何か特別な力が働いていて、ともかく何をしなくても一緒にいる、ってのを続けていくうちにいつの間にか友だちだ、というのが僕の友だち観。

一方で、「引き算」の友だちがいる。
TwitterやらLINEやらで、全方位的な人付き合いの圧力がある。
「昨日、あのテレビ観たー?」という話題ではなく
「あのTwitterでのやりとり超ウケるよね」になっている。
イマ、ココにいない子は、リカバリーがききづらい。
ライブ感。
そうした全方位的な人付き合いのなかで、たとえば喧嘩をする。失言をする。悪意はなくとも相手を傷つけてしまう。
もう一度言おう。リカバリーがききづらい。
失点がつく。「引き算」になる。その引き算が赤点ラインを越えると、「友だちからはずす」ボタンが押され、イマ、ココの友だち空間に参加できなくなる。
以上の引き算競争を経て、勝ち抜いた子が「親友」である。

僕は保守派のオタク野郎なので、思う。
「引き算」の友だちは、どーにも薄っぺらくないだろーか、と。

「ぼっち問題」

パターンとしては、対人コミュニケーションが苦手でぼっちになる系。始業式から休んで出遅れた系。モテすぎて「男子に色目使ってんじゃねーよ」と妬まれる系。自意識過剰で自分を特別だと勘違いしてしまうキモチワルイ系。

ちなみにぼっち同士が傷の舐めあい的に集まっても、それぞれぼっちのままなので、それは「ぼっちーず」である。(入間人間

聞くところによると、このぼっち問題は深刻であるらしい。

僕は幸いにして(ありがたいことに)友人に恵まれ、かつ自分が一人でもわりに平気な性分だったもんで、具体的かつ説得力ある話はできないけれど、ぼんやりとした方向としては「足し算」の友だちでいくしかないんじゃないかなーと。

なんかこう、何かに「共感」できたら、その時点で友だちである。
ジョジョとか読んでたらもう友だちである。
その共感の共有を足し算していって、いやまあ友だちってのも会う回数=親密度ってわけでもないんだけれど、ともかく足し算をしていけば、マイナス点も「あーそれはナシだよね(笑)」とか言い合える関係ができてると思う。

んで、ここでポイントが、
本音で全部をさらけ出すこと=正しいこと
ではないという。
この点は価値判断が分かれてくると思うけれど、
たとえば「オレはあの女子が好みだね、これこれこの点がさ~」という話題に対して「私は女性を品評するということに対し、遺憾の意を表明する」とか。
果たしてこの態度は正しいだろうか。

他人同士は、必ずしも分かり合えない。それは親子レベルのつながりでも一緒。
そこで、特に大人になってくるとそうだけど、全部ぶちまけることが必ずしも美徳にはならない。ここら辺の考え方は、僕は『常務 島耕作』における島耕作と出発集団CEO孫鋭の会話に影響を受けている。

だからこそ、子ども時代には本音を全部ぶちまけて痛い目を見ることが肝要なのだ。大いに傷つきなさい。大いに傷つけなさい。そんで青春のアレコレを思い出してど深夜に「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁあああああっっっ!!!!」とか叫びなさい。とか思う。なんかこう、自分でも気づかなかった好意を思わず相手の前で告げてしまい、そうぽろっと言ってしまった自分の言動に恥ずかしくなり、カーッとなって「………帰るっ!!!」というシチュエーションが最近の僕のツボです。
『隣の怪物くん』のシズク女史と『ぼくらはみんな河合荘』の律女史ですね。うんうん、帰りなさい帰りなさい。

以上である。