shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

『あの花』と、笑いについて。

『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』を観てきた。

垣根涼介『人生教習所』という本に、初対面でよくお互いを知らない人に対して、いきなりデリケートな結婚の話とかを始めるのは大人のタブー、的な話があった。大人になるにつれ、社会に順応するにつれ、僕らには制限がかかる。聴いていいコトと聴いて悪いコトができる。「こうあるべき」が増える。我慢を覚え、忍耐を覚え、辛抱を覚える。

『あの花』を僕は、メタ視点で批評家風情で評価することができない。
これは大人未満の話だし、ポケモン(みたいなモノ)やZONE『Secret base』とともに語られる彼ら彼女ら超平和バスターズの話は26歳の僕にとってストライクすぎる。だって聴いてたもん中二病じゃなくて中二ぐらいの時にZONEとか。

基本的に僕は、圧倒的に肯定の物語が好きだったりする。

「しっかりものの、あなる」
「おもしろい、ぽっぽ」

など、など。子どもの言葉は、ストレートだ。大人の「こうあるべき」の言葉と違い、含蓄や形式はなくとも、力強さに満ちている。たとえば人の人格が周囲の言葉によって徐々に徐々にできていくとして、まったく人格がふにゃふにゃしている時期に時代にそんなストレートな全肯定の言葉のやり取りをしていたら、そりゃ「いつまでも仲良し」だよね。

まあ、冷めたこというと物語中の子どもの言葉は大人が考えた「子どもらしい言葉」ではある。ただ僕はそうした「子どもらしい言葉」に単純に純粋に感動できる。言葉はある程度、属人的(「誰が」言うかに左右される)ものではあるけれど、本質としては言った当人の意図や意志を離れ、言葉それ自体の力を持つようになる。感動したよ、特に全力で「めんまーっ!!!」ってみんながめんまを探すシーンに慟哭したよちくしょうっ!

さて、こっから余談。

40代、50代で、僕が面白いと思う人は、えてして子どもっぽい側面を持っている。「ばーかばーか」とか言うし。同時に、経験ある知的な話もできるし、下ネタも問題ない。とかく間口が広い。

面白い大人になりたいもんである。

人志松本までいくと、もう狂気だけどね。
たとえばこの前、「リンカーン」の最終回で、某芸人が履いていた靴下を評して「後輩の彼女が履いてたヤツやっ!」。普通だったら、「女子かっ!」と行くところ、モノゴトに対する感受性が異常に強い松本は「後輩の彼女が履いてたヤツ」と表現する。一般人が見過ごしていくモノ・コトを発見する才能と、思いもかけないけれど言われたらすげー納得できる共通点を瞬時に言える才能。その才能がゆえに他の芸人から松本はストイックと称され、40歳まで結婚もしなかった。

まあ、僕は人志松本流は無理だし一般ピープルであるので、素朴に自分が面白いと思うモノをゆるゆる追いかけよう。

ネタを面白くできるかどうかの分水嶺は、「接続」と「着眼点」だと思う。

フランツ・カフカ『変身』を妹萌え要素から語るっ!とかね。
ラジオのラジオネームでも、たとえば「ましゅまろ大臣」とか「さくらんぼ分銅」とか、やわらかいモノと硬いモノの接続が印象に残るし。
着眼点は、そうねー、問題設定とか。「モテテク20」とかだとありきたりだけれど、そもそも「モテとは何か」だと面白いと思うんだ。モテテクはえてして異性からのちやほやを前提とした技術論(しかも使えない)になりがちなところ、モテるとは誰に対するモテか、どういう状態か、王道モテと邪道モテにどういった差異があるか…なーんて問題設定にすると面白いんじゃないかなーとか。

あとは、ベタを上手く活用する、伏線を利用する、あえて自分を一段落として道化になる、とか小手先のモノはいくらかある。ただ、自分のコトを過信しているとえてしてつまらない奴になるので気をつけたい。貴方貴女の周りに、ドヤ顔で「はい噛んだ~」とかうんこなツッコミをするヤツはいないだろうか?京極夏彦の実験的小説風に言うなら『死ねばいいのに』。安全圏から評論家気取りのヤツに、笑いをとる資格はない。ヤツは、ヤツらは、「なんで大事なここで噛むねんっ!」と状況を説明する能力も、身体ごと椅子等から転げ落ちる気概も、さらに自分も噛んで笑いをかぶせてみる等の機転もなく、ただ「はい噛んだ~(どう?面白い俺)」と言うのだ。エヴァンゲリヲン旧劇場版のラストシーン風に言うなら「キモチワルイ」

ばーかばーか。

※この表現は実際の個人・団体とは一切関係ございません。シミズの友だちは幸いにして幸甚にして面白く魅力的な方ばかりです。というかシミズは性質が根暗で社交性も皆無なため、『死ねばいいのに』という方とはプライベートでお話できません。あしからず。