shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

アンパンマン正義論

まずは、やなせ氏のご冥福をお祈りいたします。

これは、日記にしたためないで、いまこのポイントをスルーするのは何か違うよなぁという気がしたので、書いてみる。

たとえば肉があるとするだろ。ヒーローってのは肉を人に分け与えるヤツのことだ。俺は肉が食いてぇ!!

というのは、『ONE PIEACE』のルフィの定義。

飢餓、飢えは、絶対的な「悪」である。
アンパンマンは自らの顔を削り、腹の減っている子たちにパンをあげる。「残虐だ」あるいは「偽善だ」という非難がある。ただ、腹が減っていればバイキンマンにさえ躊躇なくパンを差し出したであろう彼の姿勢は、行為は、勇気は愛は、「正義」とみていいんじゃなかろうか。

アンパンマンの餡は、特殊なつぶ餡であるらしい。
それは脳細胞であり、シナプスである。
とすれば、パンを分け与えられ、それを食するという行為はカニバリズム=食人主義ともいえる。
合理性と博愛を信奉する近代社会は、しばしばカニバリズムに対して恐怖と嫌悪を抱く。
とりあえず、そうした価値判断を脇において思考してみよう。
カニバリズムが行わるケースは、
・究極の飢餓状態(船の遭難など)でやむにやまれず
・戦争で勝った際、敵方の「勇気」を体内に取り込むため(アステカ族)
・狂気にも似た余興(古代の王が自らの臣下に、自分の息子を食べさせる等)
・転生思想。男子が死んだらその骨を女子が食べ、再び子宮に戻って転生するという思想。「私が食べてあげなきゃ、あの人がかわいそう」(1960年、ギミ族)
・神への信仰。人間は神様が創った創造物なので、神聖な人間を食べることによって、神との対話を行う儀式に使用。
これらのケースで一番アンパンマンに近いのは、船が遭難などした際に食料が尽きた時に、船員の一人が「オレの肉を食ってくれ」というかたちだ。
と同時に、アステカ族にあったように、アンパンマンを食すということは、彼の「勇気」と「愛」を体内に取り込むということではなかろうかと思う。
それは、本作品中では、アンパンマンにしかできない行為なのかもしれない。カレーパンマンにしろ食パンマンにしろ、自らの身を削って食物を差し出す行為はしていなかったように記憶している。カレーと食パンがやっている行為は「食の再分配」であって、アンパンマンのような「自己犠牲を基礎としたカニバリズム」ではない。
そのような彼の行為が、「愛」と「勇気」の押しつけである、といえばそれまでだ。ただ彼の行為が、飢餓という「絶対的悪」を根絶しているのも事実である。
だとすれば、ここでいう愛と勇気は、食べ物を与えられた子の人生を全肯定するものだ、とつなげると行きすぎだろうか。
社会において食べ物を得られないという事態を抽象的にみるとき、それはその子の存在の全否定である。お前は食べ物を自分で獲ってこれないほど弱いんだから、死ねというのと同義である。うん、これほどの悪はなかなかない。
そーした悪にま正面から馬鹿正直に立ち向かう姿勢というのは、その悪が根深いモノだけにエネルギーがいるし、信念も必要になってくる。
26歳にしてアンパンマンを考え直すとき、あらためて感服いたした。

という話。

もー一つ。
ノーベル平和賞候補として、16歳のマララさんが候補にあがっていた。
彼女が賞をとること云々について賛否両論あったけれど、僕は否の方だった。今回受賞しなくてよかったと思う。
まず、大前提として、女子子ども老人および無抵抗の人たちを撃ち殺そうとする連中は、思想うんぬん言う前に「絶対的悪党」だと断じたい。
その上で、16歳の女子に、この「絶対的悪党」の矢面に立てというのは、これは大人が情けなさすぎやしないか、と思ったりする。
大人を式で書いてみると

大人=出会った人の数×自分で考えた時間

だととりあえず仮に考えていて、出会った人の数はその人の体験、自分で考えた時間はその人の思考の広さと深さ、と捉えなおしてもいい。15歳で成人だとかいう文化圏ももちろんあるにせよ、僕はどーしても大人になるためには時間と経験が必要だと思っていて、16歳の女子とかだったらまだ守られるべき子どもなんじゃないかと。

そーした子どもを神格化し、「女子教育をイスラム圏に普及させるために尽力する活動家」として政治の場に引っ張りだすのは違うんじゃないかと。それはアンパンマンが「君にパンを上げることはできないけれど、とりあえずバイキンマンが頑固でうるせーから、君がバイキンマンの矢面に立ってくれ」という感じじゃなかろうか。いやホント彼女が受賞しなくてよかったよ。もっと世の中のアンパンマン諸賢がんばろーよ。僕もだけど。

という、たまにはわりに真面目なエントリー。