shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

乖離とプリキュア

ストレスに対する反応として、近代は抑圧(フロイト先生)、現代は乖離、がある。乖離はすなわち多重人格。まったく別の人格を作り上げることによって、理解しがたい理不尽なストレスから逃げる。という話を聴いていたので、シャフトの新作『物語シリーズ 猫物語(白)』はとても現代的な話なのだなーと感じた。

ブラック○○さん。

過剰なストレスがある人にかかったときに出てくる別人格を、最近のラノベやアニメはこう呼ぶ。奇しくも、村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と西尾維新『猫物語(白)』におけるテーマは共通していて、それは“嫉妬”だった。

こと恋だとか愛だとかの潤滑油とは、恋愛を阻む障害のことである。身分、家族制度、戦争などの危険状態、距離、「娘はやらんぞ!」と鉄壁のディフェンスを誇る親父…会えない状況があるから「より」会いたくなり、愛し合えない環境だから「さらに」愛したくなる。ところで現代社会はコミュニケーション・ツールが進化しきっちゃったので、また各国の憲法は自由・平等を保障してくれたので、恋愛を燃え上がらせたかつての障害=潤滑油は絶滅の危機に瀕している。

フリーだからこそ生まれる疑問。「どうして私じゃダメなのか?」
競争だからこそ生じる仮説。「私が先に出会って付き合っていたなら」
かつては障害を言い訳にできた。片恋慕には片恋慕たる理由があった。

自由であるからこそ、より増幅される嫉妬という感情。恋の失敗は破たんは破滅は、ベクトルは自分に向けられてしまう。
村上春樹は“夢”というカタチでそいつを乖離したし、西尾維新は“怪異”というカタチでこいつを乖離した。

ところで唐突ながら。

『ガンバランスdeダンス』の話をしたい。

『負けないで』など、頑張れ!という応援ソングの流れがある。一方で、『世界に一つだけの花』など、君は君のままでいいんだよ、の流れがある。プリキュアのエンディングにかかっていた『ガンバランスdeダンス』は、いわばこれらJ-POPの流れを汲んだハイブリッドである。頑張るけどバランスをとる。頑張るけどバランスをとってとりあえず踊っとけ、という。

僕は思うのである。嫉妬から起こる乖離って、ガンバランスdeダンスなんじゃないかと。恋敗れて生じた負のエネルギーを別分野で昇華させるのはしんどい。恋敗れても「あたしは、あたしだ」と在りのままの事実としてスルーするのは味気ない。嫉妬は暗く重く、別人格を創っちゃうくらい彼が彼女が好きだったということなら、彼が彼女が好きだった自分を愛しちゃえば良いじゃん。

人は視たいものしか視ない。この格言に付け加えるなら、人は視たいものしか視ないし、人が視ているモノは人によって全然違う。たとえば、別人格を創るほどに頑張った自分。そうして頑張った自分をほどほどに愛すること。そうして獲得した新規のモノの見方はたぶんその人の味方になる。

ということを言っているのだなこのアニメは、と思った。

ところで余談ながら、パズドラを始めました。
面白いっすね、これ。