shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

たき火読書会に参加

3月。僕は品川にいる。品川駅内のアトレに実存している。
読書会が始まるのだ。課題本?村上春樹『アイロンのある風景』およびジャック・ロンドン『火を熾す』。短編だ。短編だから、想像力がいる。作者があえて作品から削った空白を、余白を、埋めるための想像がいる。ポイントは絞れている。

『アイロンのある風景』
・アイロンは何の身代わりか。換言するなら、アイロンは何を意味しているか。
・三宅氏はなぜたき火を始めたか。また、三宅氏がたき火をやめたらどうなるか。
・順子女史と三宅氏は、たき火が消えたらどうするか。
・たき火とは何なのか。

『火を熾す』
・主人公の男は死を求めているか、いないのか。
・犬という存在の意味

ざっくりだが、おおざっぱだが、この辺がポイントか。

村上春樹の小説には、対極がよくある。小柄な男と、大柄な男のセット、とか。
『アイロン~』ではそれはアイロン=暖かいモノ=生に対応し、冷蔵庫=冷たいモノ=死だ。生と死?そう、物語に生と死が関連し連関している。物語が開始する前景に、地震の記憶がある。1995年。阪神淡路大震災。三宅氏は茨城の海岸にいて、たき火をしているが、神戸の出身だ。死はつまり、三宅氏にうすぼんやりと入りこんでいる。

一方で順子もまた、死に近いところにいる。
本小説における死は、身体的な死のみを意味しない。精神的で抽象的な、概念としての死の話でもある。彼と彼女は年代も思想も過去も違う。しかし、一緒にたき火をみている。じゃーたき火とはなんだ?それは先の対極にある生と死のあいのこじゃないのか。生と死の境界がぴしっと決まっていなくて、たとえば生霊だの死霊だのの空間があるのだとすれば、たき火こそ「それ」じゃないのか。

うーん、曖昧で模糊とした話だ。

ともあれ、カフェでの読書会は中断する。
移動する。JR品川駅から、京急線を利用し、三崎口駅へ。

たき火カフェなる趣向がある。神奈川の果ての海岸線で夕日をみながら、たき火をすることを専業としている。海風を背中にうけ、潮に匂いを感じ、波の音を聴きながら、ぱちぱちと弾ける広葉樹の薪が燃えるのをぼんやり観ている。

なんかこう、外観としては、未知のナニカとコンタクトをとろうとする集団である。『宇宙のランデヴー』ほど科学的でなく、『ET』ほど冒険的でなく、『インデペンデンス・デイ』ほどアメリカ的でもない、地味で静かな時間だ。つか、別に未知ナニカとコンタクトとってるわけでもないのだけれど。

いやいやしかし、この非・日常感。火・日常感。
ともかく計算も実務も、思考も哲学もしなくていい、人生の空隙みたいな時間。
空隙を、気の置けない方々とぼんやーり共有できる空間。

うん。

こーゆう概念というか感覚というか、コトバで伝えがたいために、日記にしたためるむなしさを噛みしめながら書いているのだけども、まーよく分かんないね。

とにかく面白かった、と。

あと、お久しぶりにご一緒させていただいたとある方に、「大人らしくなって…」的なことを言っていただき、なんかこうかつての僕は今よりさらに子どもだったんですねすみませんみたいな。

んー。大人ってなんなのか、ちょっとまた別に何かに書き残したい。