shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

分人主義

ちょっと前、ロマンスカーの車内。上司と「情けは人のためならず」の話をした。この諺の真意は、「情けはその人のためにならないから、かけるな」ではなく、「人に情けをかけると巡り巡って自分に返ってくる、情けはその人のためじゃなく、本当は自分のためなのだ」というところにある。正しい意味の方を回答してしまった僕はなんとまあ可愛げのない奴であるけれども、ともあれこの時に思ったのは、『やっぱり』であった。

作家の平野啓一郎は、分人主義という言葉を使った。
20世紀の後半は全体主義を駆逐し、個人主義の時代になった。ただ、この個人主義は一貫性と結びつく。TPOのどういった場面でも、同じスタンスをとる「べき」だという。確固たる核みたいなモノが人間の内面にあって、その核を自覚し、個人として自立した存在であれ、と。

でも、学校の教室で冴えなくても部活では活発で、親の前では反抗的で、彼氏彼女の前では甘えん坊で、習い事の場では初心者でおろおろして…。かかわる人により、場により、個人は簡単に因数分解できるし、分解されたどれもやっぱり「自分」だ。個人をさらに細分化した、分人という考え。社会学的には「社会化」というのかな。

じゃあ、どの人と関わって、どういう場にいるときの「分人」が好きですか?って話である。先の、「情け」じゃないけれど、僕が人に何かをGIVEするときは結局はGIVEしているときの分人が自分は好きなのだろうなーと思う。

おお、なんだか気持ち悪い話をしているぞ、シミズよ。
←と、ある『構造』(なんつーのかな、世の中の見方とかを決める思想とか歴史とかシステムとかをふくめた全体、みたいな)をぼんやり外側から見ようとする、脱構築的なやり方が抜けない。漫画でいうと、作者が入れるナレーションみたいなやつ。

さておき、『項羽と劉邦』とか読んでいるけれど、項羽って怖いんだよね。自分の気に入った奴は重用するけれど、気に入らない奴は生き埋めにして殺したりする。基準のなさ、基準がないにも関わらず死ぬことすらあり得る理不尽に、びびる。一方で、劉邦。この人は、もーダメなやつ。能力のある奴が助けてあげなきゃ何もできない。ただ、愛嬌があるし、人を観る才能は抜群にある。

項羽と関わる分人は嫌で、劉邦といる分人はわりに好きだったから、人心は劉邦の方になびいていったのかなーと、浅はかながら思うわけで、あーそれって現代でも同じどころか、儒教や大陸的倫理観がほぼない今の方がより顕著に出るじゃない、という。

はい、時代変わります。現代。
さらに、場所も変わります。@トーキョー

僕が読書会運営を引き継いで、そろそろ1年になる。『ダ・ヴィンチ』の取材を受けたり、飲み会やったり、近々告知するけれど今度は他の読書会さんとコラボ企画やったりする。実は自分でゼロから立ち上げた会も数回開催したのだけども、途中から既存インフラを活用し、自分のやりたーいモノと・参加者の方がやってほしーいモノの最大公約数をみつけて運営していく方が楽だなーと気づき、楽な方に流れた。若いうちの苦労は買ってでもしろ?いやいや、良い苦労と悪い苦労が巷にはあふれていて、悪い苦労をすると人相から品格から何からが貧しくなるので、そんな苦労はしたくない現代っ子。

まあ、つなげると、会を運営して参加者の方みんなで楽しんでもらえるのを実感している時の分人が、僕はわりに好きなのである、ということ。
司会者であり、コメンテーター(笑)であるところのバランスがわりに難しい。この辺の感覚は自分で場をまわす立場になってみないと分からない暗黙知な部分がかなりあると思う。まだ乗り越えてないんだよなー。壁を。できれば壁とか回り込んで先へ行きたいタイプなんだけれど、越えるしかないんだ、筋肉をつけるために。

以上。

そして余談。

『俺の彼女と幼馴染が修羅場すぎる』というアニメをたまたま観た。『項羽と劉邦』を読んだあとだったので、なんなんだこのスケールの小ささは、と思った。『らき☆すた』とか『生徒会の一存』(例が古いな)などのいわゆる日常系は、オタクとしての歴史がないと面白味はなんもない。ツンデレ、ロリなどの安直な記号に反応できるかどうかは、これもまた暗黙知の領域で、ある壁を越えると「あるある」ネタで日常系アニメは楽しめる。まー近年では日常系アニメの登場キャラにオタク解説ポジションの娘とかを置いて実況中継してくれるし、2ちゃんねるやニコ動で学べるので、だいぶオタクになるためのハードルは低くなっている。

あーなんかこんな余談も脱構築ポジションだよね。うーむ。