shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

哲学をしてみた

大人になることの楽しさの一つは、妙なカッコつけとかプライドがなくなっていき、「好き」に全力が出せることだ。まあ、僕の場合は、だけど。昔はカッコつけで、U2だのOasisだのしか聴かん!的スタンスだったのだけども、今はフツーにAKBやももクロを良いと思い、人前でその良さを語れるようになったよ。『Begginer』とかに励まされていたりするよ。いや良いんだけどねU2やOasisも。

さて。哲学してみる。

「自己の主観的空想を消磨しつくしてぜんぜん物と一致したるところに、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見ることができるのである」―西田幾多郎

自我(オレはオレだ、って意識)と客体(オレが見ている『アレ』)を二分する近代西洋哲学にそれは違うんじゃねーの?と意見を唱えた哲学者・西田幾多郎。『バガボンド』が分かりやすいかな。武蔵は、「俺が天下無双だ」って意識から、他者=客体=サムライたち、を斬りまくった。けれどもそれは、彼より実力的に強い奴が出てきたらあっさり終わる安っぽい最強である。自我に囚われている限り、武蔵は天下無双には至らない。自我と他者の二分法から先に行く必要が、彼にあった。(それゆえの畑仕事)

アジアの時間軸は円環的だ。輪廻転生とか、そーゆうやつ。円のごとくぐるぐる回る世界では強者の上に別の強者がやってくる。平氏を源氏がつぶす。徳川を明治政府がたたく。大日本帝国を鬼畜米英が殲滅する。二分法の強さの先に最強はない。諸行無常の感覚は、このアジア的円環的時間軸と、四季がめぐる日本の風土の影響が大きい。

ところで、キリスト教圏の時間軸は基本的に直線的で、ゴール(最期の審判)が設定されている。まあこの時間軸を、ニーチェが叩くわけだけども。

「超人は大地の意義である。兄弟たちよ、私はあなたがたに切願する、大地に忠実なれと。あなたがたは天上の希望を説く人々を信じてはならない。彼らこそ生命の侮蔑者、死滅しつつあり、みずから死毒を受けている者である」―『ツァラトゥストラはかく語りき

これをニーチェが言ったとき、こんなこと言う奴いるのマジで?って情勢だったかはよくわかんない。1844年~1900年、ドイツ。戦争の理由は神の意志から、植民地獲得競争に変わっている。或いは旧体制VS革命者の構図になっている。ともあれどうやら、ニーチェと西田には通じる所がある気が僕はしている。

ZEN

ツァラトゥストラは近代人とは別枠に行ってしまったので、また山に引きこもっちゃったのだけども、いかにもZENじゃなかろーか。グーグルの社員がやっている数あるプログラムでも禅は人気があるらしい。自我も客体もなく、なんかこうふわふわ~っとした感じ。

まあ、無理だよね。

哲学(らしきモノ)終了。

韓信(『項羽と劉邦』)が好きだ。もしくは、トルケル(『ヴィンラント・サガ』が好きだ。伊藤一刀斎(『バガボンド』)も好きだ。圧倒的な“武”の才能を持ち、裏表なくただひたすらに戦いを楽しんで生きている感じがいいっす。最近の強い人たちはみんな畑仕事を始めてしまったけれど、そしてその意義も何となく分かるけれど、やっぱり子どものように好きに戦い続ける人物が好きだなー。