shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

アートアクアリウム、じゃんけん大会

先日、三越のそばでやっているアートアクアリウム展に行ってきた。人間に純粋培養されたフナの変種=金魚を題材としたアート水族館である。

こう、ちょうど村上隆『芸術起業論』を読んでいたからだと思うけれど、日本人の芸術感度の貧しさが目についた。スマホやら何やらで、ぱしゃぱしゃ金魚を撮っている連中のまぁ多いコト。撮影会かっつの。芸術なんて、「きれ~い!」とか言っていればよくて、そこには作品の文脈を読もうっていう思考的努力がない。ぬるい環境である。

なーんてコトにぷりぷりする当たり、僕の青さも捨てたものではなさそうだ。

ところでところで本展の所感。

金魚という存在を考えるとき、そこには人間のエゴがどうしてもからんでくる。
中国でフナの一変種として発見された彼ら彼女らは、貴族階級のみが鑑賞できる高級品として室町時代に日本に入ってくる。なぜ金魚のような変種が発生したのかは科学的にも謎で、自然界には目がびよーんと飛び出した出目金も、鮮やかすぎる色をした金魚も存在しない。自然が偶然に生み出した「刹那的」な存在を、日本人は後生大事に育成し鑑賞し愛でている。

「刹那的」…これがポイントかなーと薄ぼんやり思った。

葛飾北斎は、富士山と波打ちの絵を描いた。
これはたぶん、欧州陣営にとってびっくりする出来事だった。まさに波が躍動するその「刹那」を捉える感覚。宗教画や風景画や人物画など、総じて静止画こそが絵画のフォーマットじゃね?と固定観念を抱いていた欧州陣営は、日本の刹那性に注目した。そうした感覚を遊びながらやったのがパクス・トクガワーナによって250年の平安を得ていた江戸だ。映画『ブレード・ランナー』においても芸者が荒廃した未来都市に描かれているけれど、米国や欧州にガチで喧嘩売れる日本の芸術分野は現在では“江戸”と“アニメーション”くらいなのかもしれない。

本作中に、『大奥』なる作品がある。
複数の金魚鉢がピラミッドのように重ねられ、上部から水が噴水のように流れるにも関わらず鉢のなかの金魚たちはその鉢から動かず(動けず)、さまざまにライトアップされるその刹那を生きている。大奥の艶やかささ、その裏にある刹那的で閉塞した陰影を表現した作品である。近くで流れるふわ~っとしたBGMも相まって、なんかこういい感じだった。

上述した通り、金魚は自然界における変種だ。一代で消えるはずだった生が抱える本源的な切なさ・儚さはしかし、金魚それ自体の見た目の美しさに歴史/物語を付与している。淡いのだ。線香花火とか風鈴とか浴衣とか、日本の夏には淡い感覚があって、金魚はそんな情緒にジャスト・フィットだよね。

ごにょごにょ言ってきたけれど、結論としては「面白かった、よかった」。
この、現地に行って感じた「面白さ」は、果たしてスマホで下品にぱしゃぱしゃ写真を撮ることでアーカイブに記録可能なのだろか。作品を前に、僕はぼーっと江戸の夏の刹那に思いをはせていたのだけれど、Facebookでイイネ!を獲得するために写真を撮ることに忙しいって………うーむ。
と、あまりの混雑ぶりにイラッとしたので、無辜の鑑賞者をディスってしまった。

「若い」「青い」

やれやれ。

さて、話題は変わり、「第4回AKB選抜じゃんけん大会」について。

マリコ様なきあと、次世代エースとして珠理奈を推していかねばなるまい、と無駄な使命感のもとにTV中継を観ていた。結果的に彼女がパーを出し続けてセンターを獲得したことで、八百長疑惑が盛り上がっている。いいねいいね、と僕は思った。仮に八百長だとしよう。そうした「八百長だっ!」というアンチの声もまるごと飲み込んでいく気概こそが、あっちゃんが大島優子らに引き継げなかったエースの系譜である。価値観が多様化したポストモダンのアイドルは、松田聖子の時代と違って「アンチって価値観もありだよね」という層すらも取り込んでいく気概が必要となる。これはねー10代そこそこの娘にはしんどいよ。歳とれば「おーどうぞ嫌いになってくれ!逆に面白い!」という心境にもなれるけれど、思春期、しかもその大半をAKBなどアイドル活動に懸けてきてその結果嫌われるってのはしんどいよ。

ということで。

仮に八百長だとするなら、そうしたアンチの猛烈な批判を珠理奈が引き受けるってことだし、八百長じゃないとするなら彼女がカリスマ性を帯びているということ。八百長じゃないけど研究生クラスの娘たちが無言の圧力に気圧されて思わずグーを出し続けてしまったのならやはりそれはセンターの重圧に耐えうる器ではなかったということ。どのパターンをとっても今回は珠理奈がセンターでいいじゃん、ということ。

その他にも、じゃんけん大会は色々工夫されてんなー、と思った。

じゃんけん、どっちが勝っても物語がくっつく、とか。

努力してきた研究生が勝つと、「ここまで努力して念願の初選抜!」
レギュラーが勝つと、「さすがの貫録!」
SKEが勝ってもNMBが勝っても「チームのため!地元のファンのため!」
取り立てて特徴ない娘が勝っても「プロダクションの皆さんもこの表情!」

AKBグループは、各々の娘が所属しているプロダクションが異なる、言ってみれば国際連合軍なので、まあガチですよ。CDシングルという戦場では共に戦うけども、利益配分の場ではガチでぶつかるっていう環境設定。

環境といえば、じゃんけんと本質的に関係のないステータス、知名度(A~E)や視聴者支持率をのせたり、格闘ゲームの要素をのせたり。ところどころで女の子たちからコメントをとっていったり。果たしてあーゆう場において、彼女たちは自由意志で話しているのだろうか、とか思うんだけど。どーやったって、「絶対にてっぺん取りたい!」という趣旨を言わされるしかない気が。でもまあ、たとえ嘘でも彼女たちがそーいう表明をすることで、アイドルであるという自覚・気概が再帰的になっていくのかもしれない。

そうしたコメントでもやはり気になったのは、大島優子である。わりと最初の方でじゃんけんに負けたあと、ちらっと勝った娘に対して「がんばってね」とか言っちゃうこの感じ、ディスれないこの古き良きアイドル像があるから、優子はエースとして絶対的な地位を確立できなかったんじゃないかなーとかなんとか。ルックスとかダンスとか、スペック的にエースとして問題ない彼女のネックは、そのキャラクターだった。おしい。

AKBグループに関してはマガジンでやってる漫画『AKB49』くらいの知識しかないわけであるが、得意の「オタク力(おたくりょく)」を発揮し、じゃんけん大会無駄に楽しんでしまった。オタク力は研鑽の成果である。「夏っ!海っ!水着ギャル!ナンパ!」という資本家とは異なる面白さをオタクは見つけられる。「俺は私はオタクだから…キモイよね?」と卑下する必要は毛頭ない。キモイのはそれが過剰だからである。自身がキモチワルイことを自覚し、キモチワルイことを申し訳なく思いながら、世間様になるべくご迷惑をおかけせぬよう謙虚に努めることが肝要である。先の「夏っ!海っ!」の資本家も、過剰になればキモイのである。

AKBじゃんけん大会を観たことで、また飲み会のネタができてしまった。
やれやれ。。。