shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

慰安婦の件

朝日新聞が掲載した、旧日本軍の従軍慰安婦の誤記事。

この記事の影響からか、

1996年には国連のクマラスワミ報告で「戦時における軍事的性奴隷制問題」として取り上げられ、

2007年にはアメリカ議会から、いわゆる「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」が出され、

端的にいえば、「日本は女性差別国家なんだから死ぬれ」と世界から断罪された。

 

これを日本の「国辱」とし、世間は激しく朝日をたたいた。

確かに、検証がずさんな記事を載せた朝日は、プロとしていかがなものかと思う。

だけども、朝日のエラーは、

従軍慰安婦は、存在しなかった」

というコトで片付くのだろうか。

それは、「こいつ犯罪者かもしれないけど、証拠がない。よって不起訴」

というだけの話で、本当はそいつが「やっていたかもしれない。」

そんで、個人を裁く裁判所のような機構は国家を越えてはなかなかないから、

とりあえず「やっていたかどうか。」は、当事者が調べないといけない。

当事者がちゃんと調べたかどーかは、国家の責任感の問題であって、

その責任感がある方が、当然ながら信頼される。

 

日本の戦争犯罪を語る際のフォーマットとしては、

「かつて日本軍は、我々にこんなひどいことをしました。」

と発言する人たちを、「証拠がない」と退けるスタイルであって、

「もしかしたら、日本もそんなことやっていたかもしれない。」という疑念のもと、自ら徹底的に調査することはせず、

門戸開放で忙しかった中国と日中平和条約を結び、漢江の奇跡で忙しかった韓国と基本条約を結び、金王朝独裁体制を無視し続けることで、

「フタをした。」

 

要は、今起きてる敗戦国日本の戦争犯罪の掘り返しは、「フタをした。」ことのツケでもある。中途半端な調査しかしてないから、中国や韓国の外交戦略に利用される。

それに加え、「なんで結婚しねーの?産まねーの?」と

ドヤ顔で公的な場で発言しちゃう政治家が現存している状況で、

「日本は、いまも昔も、女性差別はしていません!」

と言って、誰が信じるよ?っつー話である。

 

僕はなにも、「日本人であることを恥じろ」と言っているわけではなく、

しかして、「日本人として誇れ」と主張しているわけでもない。

そうしたフィルター・偏見をとりあえず脇に置いて、

もうちょっとロジカルに。過去と未来の話をしようぜ、って言いたい。

エレベータートーク

ビジネスの世界ではみな忙しい。ゆえに、エレベーターで同乗している時間内(1分そこそこ)で、相手に伝わるよう、プレゼンできるようになるべし!

的な、エレベータートークが、なんかキライである。
1分とかそんな短い時間で伝わることなど、表面的で大したことないんじゃね?という。

ワンピースの最新刊を読んで自省する。
そんなことないかもしれない、と。

というのは、サボ(ルフィやエースの義兄弟)が登場する4~5コマだけで、
なんだかすげー泣けてくるのである。秒速で感動した。
60巻以上におよぶ、長い任侠物語が、
きっとこの感動を呼んでいる。
エースが死んだ頂上戦争の場に行けなかった無念と、亡きエースの遺志を継ごうとするルフィの信念に殉じようとする決意。その他いろんな感情と事情を背負って、サボは海軍大将を足止めしている。4~5コマですげーわかる。伝わる。

4~5コマ…エレベータートーク、いける!と思った。

ビジネス書をみてみると、メンタルモデル、っちゅー言葉がある。
要は、仕組みとかモノゴトに対する理解度、だ。
文藝と組み合わせてみるなら、長い物語を読んだり聞いたりする意義は、
このメンタルモデルの構築にあると思っている。

いま、僕は『カラマーゾフの兄弟』を読み返していて、
ゾシマ長老が死ぬ直前に、牧師たちに昔話と説教を始めている。
説教はアリョーシャの手記の形式をとり、100頁近くに及ぶ。
なかなか死なねーなゾシマ長老!と僕は思うわけだが、
込み入った長い話を通すことで、
読者はおそらくカラマーゾフ的メンタルモデルを獲得できる。
そのカラマーゾフ的メンタルモデルを獲得してからは、
話が理解できて、すげー面白くなる。
もうね、グルーシェニカ(フョードルとドミートリーの愛人)が、ドミートリーの婚約者に対してキスのお返しをしない(社交界でのオシャレな侮辱方法)シーンとか、「やってくれたぜバカ野郎(笑)!」と思いましたね。素敵すぎます。
その素敵さは、カラマーゾフ的メンタルモデルがあるからこそ、分かる気がします。

一般に、長編よりも短編を書くほうが難しい、って話だけども、
読み手にもそれは言えると思う。

カズオ・イシグロ夜想曲集』は短編集だ。
その中に、かつて西と東にイデオロギー対立があった時代。
西側の大スターだった歌手のレコードを、こっそり東側で聴いていた音楽家の話がある。ソビエトがなくなり、この音楽家は西側の大スターと対面できるのだけど、すでにこのスターは西側の世界では没落していた。東側の音楽家にはそれが理解できない。
この哀愁感…。なんとなく分からないでもないが、おそらく完全にはわからない。

「自分の言語の限界が、自分の世界の限界となる。」とは、言語ゲームの基を創った哲学者・ウィトゲンシュタインの言葉だけども、共産主義者=「アカ!」と、敵意と侮蔑と嫌悪を込めて呼んだりしていた時の「言語」を、僕は知らない。だから『夜想曲集』の世界を構築する言語を知らない僕は、きっとほわほわ~っとした「何となく」の理解にとどまっている。

仕組みやモノゴトの理解度を示す、メンタルモデルを創ったり何だりするのには、
たぶん時間がけっこーかかる。
短編小説を読むのには、背景理解や言語世界の拡張が必要であるように、
エレベータートークにおいても、それに膨大で莫大な時間をかけていることが、
おそらく必須条件なのだろう。
話すのにも修行がいるし、聴くのにも修練がいる。

最近、若い子と話す機会が増えて、どーもズレを感じていたのだけど、
要は、このメンタルモデルのズレらしい。メンタルモデルが出来上がり途中なのだ。
ということは、僕も相当に先輩方にご迷惑を(今現在含め)おかけしていた(る)訳で。
平に。ひらにごようしゃを~。と平身低頭である。

大審問官

「今は分かんないだろうけど、○○歳になればわかる。」
なんて表現がキライで、だってそれは○○歳になるまで反論可能性がないわけで、
「大人はズルい。」的なコトをほざいていた19歳くらいの時だ、
僕が『カラマーゾフの兄弟』を最初に読んだのは。

驚くべきことに、「○○歳になればわかる。」というのは
けっこーな事実だった。
30歳手前にして、カラマーゾフの次兄、イワン・カラマーゾフの神学論争、
「大審問官」の章が、10代の頃より「腑に落ちる」ようになった気がした。

冷徹でシニカルな思考・嗜好を持つイワンは、純粋で敬虔な三男、アリョーシャ・カラマーゾフと神学論争をする。「神は在るか否か?」っていう、アレだ。

ギリシア正教の教義はよく知らないけど、まあ、キリスト教の基本的なベースは大して変わらんだろうと思うので、そっから行くか。
キリスト教の基本的なベースになっているのは、「神との契約」。
イエス・キリストユダヤ人だったのはご存知のとおり。そして、ユダヤ人は当時(紀元前1000年から)も迫害と流浪の民だった。確かなモノがなんもないから、「神との契約」っていう確かなモノを作って、日常生活を律法でぎちぎちに固め、救済を求める。そうした「神との契約」に、愛(アガペー)を持ち込んだのがキリスト教。現に、イエスはパリサイ派(律法重視のむんむん派)をすげーディスった(と信徒は語っている)らしい。

一予言者だったイエスを、神の子まで引き上げた連中の一人が、使徒パウロだ。
彼の主張は、神の子イエスは人類全体の原罪を一身に負い、十字架にかかって復活した。だからコレを信仰せよ、ってコト。原罪とは、神の意志とは逆に行くよーに(堕落するように)人間のフォーマットが創られていて(それは設計者のエラーじゃん、と僕は思っているけど)、自分ではどーしようもないから、そんな自分を「悔い改めて」信仰しなさい、っていう思想。

信仰すれば、神の無償の愛により、死者もぜんぶ復活させた「最後の審判」の日に、争いも諍いも、さらには性別の区別もなくなった永遠の命を信徒は得る。的な。こーゆう感じのコトを、パウロはじめ使徒たちは各地にプレゼンした。

パウロの仕事でもう一つあるのが、「二王国論」。
これは、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」というイエスの言葉が基にあるのだけど、要は、世俗のことは政治が、タマシイの救済のことは教会が責任持ちますよ、っていう。

うし、戻ってきた。
ここで、イワンが問題にしているのは、タマシイの救済が教会に委任されているってコトと、愛のコト、それから自由のコトだ。

イワンは例をひく。「悔い改めれば」罪は赦される、というけれど、
じゃあ、母親の目の前で、犬に子どもをかみ殺させ、そんな場面にエクスタシーを感じる権力者のようなクソ野郎でも、「赦される」というのか?
なんの罪もない子どもの犠牲が、「神の国」実現のために必要だとでもいうのか?

そこから、本題の大審問官。大審問官は、イワンが創作した、90歳をこえる教会の首領。その首領はある日、奇蹟を実現するイエスっぽい男と対面し、告げる。「あんたはイエスだな、今さら出てきてんじゃねーよ。ばーか」的なことを。
イエスの理想(というか、使徒たちの解釈)は、なんの区別も差別もない、「神の国」での人間の解放、すなわち自由だけども、「無理。人間は自由に耐えられない。」と大審問官は断言する。
強い人は自由でも大丈夫かもしれないが、大多数の弱い人間は、権威を必要とする。権威ある統治。そして権威ある統治を1500年以上、実行してきたのは教会だ。
だから今さら出てきて、奇蹟をふりまいて教会の、人間の邪魔すんな、という。

先の例でひいたとおりの、下劣な権力者の下等な行為も。
イエスを堕とそうとする、老宣教師の信念も。
神は「赦す」。だって愛(アガペー)は無償の愛だから。区別も差別もしないから。それは原理的にすんげー無力だ。
んで、よく分からんなーと思うのが、以上のように考える大審問官の信念こそが、本気の信仰かもしれない、というイワンの注釈。
ちょっとこの辺はうまく言語化できない。

まあ、長い小説を読むことの醍醐味の一つは、そーした言語化できない領域を楽しむ、ということに尽きると思う。

さすが、「世界一の小説」である。

死んだら、「神や仏様になる」と考え、
その神様すらも死にうる、という、世界宗教の大勢からみると亜流の、
日本風にカスタマイズされた仏教・神道の世界観に生きる僕には。
「神との契約」に基づく、神vs人間の在り方を問う大審問官の章は
長らく「???」だったし、まだ当分「???」だろうけども、
年齢を重ねて、見方が変わってくるのが月並みだけど面白い。

ちなみに、『カラ兄』の主人公は三男のアリョーシャ・カラマーゾフで、
この後、敬愛するゾシマ長老の老死と、実父であるフョードル・カラマーゾフの殺害事件に直面する。先のパウロの二王国論でいうなら、タマシイの死(ゾシマ長老)と世俗的なリアルの死(フョードル)だ。
小説中、「お前もカラマーゾフだからな。」的な言い回しが何度もあるけれど、教育や道徳やしがらみなど、あらゆる後天的なモノを取り除いていった先に、カラマーゾフ的なもの(淫蕩と放蕩と遊蕩)があるのだとしたら、それに対峙してアリョーシャがとる行動は…。ってのがドストエフスキーの書きたかった所の一つだろうけども、残念ながら遺憾ながら、本作は未完だ。未完の大器だ。

今回の副読本として、橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』のキリスト教に関する部分を活用した。
これも存外に面白い本だった。

さて、あと。。。1000頁?

マーニーさん

『思い出のマーニー』観ました。

うん、えー。どうしましょう、この、何とも言えない感。

主人公の一人、杏奈は、
「わたしは…わたしがキライ」
と思っている娘です。

杏奈はぜんそくの療養のため、空気の綺麗な田舎で休みを過ごします。
そこで出会ったのが、不思議な雰囲気のある少女、マーニーです。

物語は、杏奈の抱えるトラウマが解きほぐされていき、
また、マーニーの抱える闇が杏奈によって浄化されていくという、
なんつーんですか。ダブルヒロインが、それぞれの存在にちょっとずつ救われていくという、ハートフルなお話です。

うーむ。困りました。

僕は、「自分大好き人間」なので、
「自分が…キライ…」という人の気持ちが、イマイチ分かりません。

物語の冒頭、杏奈は、スケッチが得意な娘ですが、「人」の絵は描けません。
スケッチにしろ、写真にしろ、「人」を写す行為というのは、「自分は世界をどー見ているか」って現実を突きつけられるコトでもありますから、
自分をある程度、肯定的にとらえていないと、「人」を描いたり写したり、ってのはしんどいコトなんでしょう。

だから、杏奈が変わるコトがあるとすれば、
「人」の絵をスケッチできた時だろーなーというのは、予想していました。
ですが、僕の観る限り、杏奈が描けたのは「マーニー」の絵だけでした。
一応、映画としての結論は出さず、と言ったトコなんでしょう。杏奈はまだ変わる途上にあるだけであると。

うーむ。もやもやです。
うん。僕は、あんまり自分をキライになった経験がないんで何とも言えませんが、
「自分がキライ」からの脱出方法としては

①飯食って風呂入ってクソして寝る
②好きなモノを増やす(好きなモノを思い出す)

①は、作中でも、おばさん達がとっていた方法です。
「あの娘ちょっと変じゃない?」だとか、そんな周囲からの悪評は放っておいて、
とにかく普通の生活をすること。
こう、部屋の隅で体育座りしてぶつぶつ言ってる。「だから」へこむ、ってある気がします。なにせ人間の身体の6~7割は水ですから、水を入れる器が暗いカタチしてたら、そりゃ暗くなりますわ。
明るい器に移しておけば、いずれ良い方向に向くんじゃね?とか。

②は、『アナと雪の女王』でもけっこーポイントだった気がします。
「人を傷つけたくない」がゆえに、独りになろうとしてたエルザの心を引き留めたのは、実はオラフだと僕は思いますね。
つまり、「雪で人を傷つけた」というどよーんとした記憶を上書きし、「雪の能力で生まれた存在(オラフ)と、アナと、遊んだ楽しい記憶」へ書き換える。
好きなモノをたくさん作ること。好きなモノをたくさん思い出すこと。

こと、物語に関していえば、
「自分がキライ」な理由は、「自分にはどーしようもないこと」に拠るのがほとんどです。

家族が「フツー」と違う。
病気で「健康」と違う。
性格が「正常」と違う。

だから、わたしはわたしがキライ。

そこを割り切れないのが、まあ確かに、人間の性です。
しかし、飯食って風呂入ってクソして寝てください。自分の好きなモノを増やしてください。と、映画を観てる間、ずーっと思っていまして、なかなか、「自分大好き人間」にはもやっとさせられるお話でした。

しかし、僕は頑張っている人は応援できても、もじもじしている人にはあんまり力になれなそーだな、というのを感じましたんで、収穫はありました。

あ、ちなみに、収穫とか言って、あらゆるモノを「自己成長」に
つなげよーとしちゃうトコなぞ、「自分大好き人間」の特徴です。
みなさんにはご迷惑をおかけせぬよう、もっと小賢しい生き方を目指します。

それを人は女装と呼ぶ

和田竜『村上海賊の娘』読み終わりました。
基本的に、戦闘美女と海賊が出てくれば、文句はございません。

主人公は、能島村上水軍首領村上武吉の娘、景姫です。景姫は当時の日本人にしてはバタ臭い目鼻立ちだったせいか、瀬戸内では「醜女」と言われていました。そんな彼女はひょんな出会いから、泉州(現在の大阪あたり)に行くことになり、その泉州では逆に超モテモテです。南蛮人との交流があり、活発であけっぴろげな気風を良しとする泉州侍たちの感性に、景姫はどストライクでありました。

さて、時代は織田信長が武田の騎馬隊を破り、
破竹の勢いで一向宗の本山に攻め入ろうとしている時でした。

景姫は、織田と対立する形になった毛利軍につき、
泉州侍たちは、織田の援軍として「木津川合戦」に参戦します。
下巻はずーっと戦闘シーンが続きます。

そんな中で、僕が注目したのは、景姫の女装シーンであります。

実は一度、景姫は、泉州侍のボスに「姫さんは戦のことなんもわかっとらん、つまらんヤツや」とぼっこぼこに打ちのめされます。打ちのめされた景姫は、瀬戸内に帰り、嫁入りのためファッションにこだわりました。もともとモデル体型であるため、すっげー着こなしちゃったという。

あー。。。姫さんが女装しておる。と思いました。

女装という行為は、生物的なセックス(性別)を問いません。ジェンダー(社会的な性別)の領域です。性別が女性だけども、女装する女性もいますし、女装しない女性もいます。時と場合によって変わったりもします。
景姫に関していえば、あきらかに、女装しないタイプの女性です。ゆえに、景姫はファッションの見た目はすげーよかったのですが、親戚の別の姫から僻みもまじえて「全然似合わない」と評されました。

女装の目的は、二パターンあると思っていまして、

①自分が女の子だと確認する、女子ワールド補完計画
②男ウケ

まあ、細かくみれば、「非日常体験」とかあるんですが、
とりあえずのメインはこの①②ではないでしょうか。
どちらの目的にしろ、景姫の生き方には合わないですよね~。

ちなみに、先に女装は時と場合による、と申しました。
犬山紙子『嫌われ女子50』によりますと、女子会にはパターンがあるそうで

A.上っ面会…お世辞や自慢が飛び交う女子ワンダーランド
B.恋愛会…とにかく恋愛の話をしまくる
C.ブス会…自分のブスな部分を解放する(ヲタ会などもこちらに分類か?)

ABの混合、BCの混合などいろいろあるのですが、とりあえず。
このうち、Aは女装可です。まあ、「○○ちゃんコレかわいい~」とか言い合う会ですもんね。B、Cは、ちょっと女装では微妙かもしれません。というのは、「男子から注目される、素敵なあたし」を自己啓発する場でもないし、Facebook等に「いま女子会やってま~す」と男ウケを狙って広告するものでもないからです。
どちらかと言えば、「男ウケは悪いけど何となく気に入っている服」を着れる場です。こうした場での女装は、野暮かもしれません。

女子会に出場したコトないから実情は知りませんが。

これに対し、男子の女装。①を目的とした女装を、ちょこちょこ見かけるようになってきた気がします。レディースものを着てみたり、女の子らしい行動をとってみたり。なんつっても、男子にとって「女の子」は永遠(とわ)なる宇宙(こすも)ですからね~。

マンガ家の押見修造が、「男が恋愛対象ってわけじゃないが、『女の子』としてちやほやされながら育てられてみたい」的な願望を『ぼくは麻里のなか』のあとがきに書いてましたけれど、うん、なんか気持ち分かる気もしますよ。

「女の子になりたい」という願望から来る装いや行動。
「男ウケしたい」という切望から来るアレコレ。
それを人は女装と呼ぶ。(身体の性別とはず)

絶対評価の喧嘩、相対評価の喧嘩

一条ゆかり先生『プライド』を読みはじめました。よーやく。

オペラ歌手を目指す気高いお嬢様タイプの史緒。恵まれない家庭環境・境遇から必死に抜け出そうとする音大生の萌。二人のプライドがぶつかる喧嘩であります。

お嬢様(それも、没落貴族的な感じ)がストライクゾーンのあたくしは、やはり史緒を応援しがちであります。
物語の序盤、イタリアへの音楽留学をかけたコンクールにおいて、史緒と萌は対決するわけですが、史緒の出番の直前に、萌は「あなたのお母さんが死んだのは、あなたをかばったからよ」的な精神攻撃をしかけます。
動揺した史緒は優勝をのがし、「プライドを捨て」て千載一遇のチャンスをもぎとった萌でしたが。。。

的な感じで、相手のネガティブ・キャンペーンを張り続ける萌と、ちっぽけなプライドゆえ周囲と軋轢を生みまくりの史緒の喧嘩は続きます。

僕は思います。
喧嘩の勝敗が、相対評価だから、
相手を陥れる。なーんてつまんねー手段が正当化されるんだろーなと。

歌手は、技術があれば人の心に届く、なんてシロモノじゃありません。
「なんかわかんねーけど、惹きつけられる」魅力といいますか、ある種の才能が要ります。そしてある種の才能を持った娘が1人いれば、衆人はその1人に注目し、その他大勢を無視します。5人も10人も一緒に「注目」すんの無理じゃないっすか。
とすれば、自分以外の、才能のある娘を追い落とす。追い落とすことにより、残った自分に注目を集める。それも勝つための手段だ。その手段をとらないのは「甘い」なんて言い方もできてきます。

人の気持ちもけっこーそんな感じかもです。5人も10人も「平等に」可愛がるなんて大変ですから、どーしても順位づけがなされ、ランキングを上げるためには、1位の本命の娘のネガティブキャンペーンをはると。

一方、絶対評価の喧嘩は、勝敗がはっきりします。

つーか、自分が強くあればいいだけなので、戦う必要すらなかったりします。

それでも戦うのは、『バガボンド』の伊藤一刀斎いわく
「最強の相手こそが、まだ見ぬ自分を引き出してくれる」からであって、
戦って自分を出し合った後は、ノーサイドです。とーもーだーち、です。

A番長「…痛っ。お、お前、なかなかやるな。。。」
B番長「…っく。お前こそ、強いじゃねーか…」
両番長「くくく…。はーっはっはっはっは!」

的なアレです。
自分のパワーを、相手にぶつけるコトによって、
新たな自分を知れたから、満足なわけです。戸愚呂(弟)のアレです。

ノーマン・フィッシャーいわく。

「自信はうぬぼれとは違う。本当に自信があれば、人はエゴに関して柔軟になる。必要な時にはエゴを活かせるが、他人の話に耳を傾けてまったく新しいことを学ぶためなら、その必要に応じて抑え込むこともできる。そして、もしエゴをうまく抑えこめない時には、少なくとも、そうと気づくことができる。自分に対してそう認めることができる。自己非難せずに自分の限界に気付くには、深い自信を必要とする」


まあ、何と申しますか、
相対評価の喧嘩は、なるべくしたくないな~、と、
天上天下唯我独尊主義の僕は思いました。

女の子の場合はどーだか知りませんが、
男子で、相対評価の喧嘩やってる奴は、たいがい小物だと思います。

聴く力って、そんなに大事かい?

アラサーちゃん (無修正)』に、「男女ともにモテるためには、まず、相手の話を聴くこと!」という雑誌の忠告を真に受け、男子も女子も会話せず「………」が続く。というオチの回があった。ですよね~、と思った。

「みんな、自分の話をしたいものである」という前提が、そもそも違う。
たとえば、みなさんは思春期に、おとんやおかんに、「学校で何かあった?ねえ?ねえ?」とか質問され、「うぜぇ…」という時期はなかったろうか?
その時、「あたしの話を聴いてくれてうれしい!」と感じただろうか?
僕は、申し訳ないが、「面倒くせぇ…」と思っていた。

「聞き役」に対しても、同じような面倒くささを感じる時がある。
「人の話を積極的に聴いて『あげる』、気遣いができるオレorあたし!」的なオーラ。そのオーラの、もわっとした感じ。そんなもわっとした感じはいらない。それだったら、家にいる、陽気なネズミのぬいぐるみか、熱帯魚にでも話しかける。

「聴く力を、磨こう!」

ちゃんとしたコミュニケーションをとろうとする努力を放棄し、ただ、「黙って・相槌うって・質問をときどきすれば良い」なーんて甘い考えを正当化する方便として、「聴く力」を使っているのだとしたら、うん、そりゃあ、モテまい。

もー1つ。『アラサーちゃん (無修正)』に、「女慣れしてない男の合コンあるある」ネタがあった。

・男同士で内輪ネタで盛り上がり、女子からの「なんの話~?」との質問待ち。
・「なんの話~?」からの、「自分伝説」語り。
・「自分伝説」を話し、「距離が縮まった!」との勘違いからの、「下ネタ」
・「下ネタ」からの、内輪話&自分伝説(性体験編)

まああれですね、フィクション(ネタ)であるコトを前提で言うと、
「ナメてるとしか思えない」ですね。
こんな合コンなら、「こっちから願い下げですわっ!」

基本ベースはフェミニストなシミズですが、ことお笑いに関しては「男の仕事」だと思っちょります。女芸人さんが軒並み「男っぽく」なってしまうのも、大衆の娯楽である落語家が男ばっかりであるのも、たぶん何か理由があるのでしょう。
女性が、面白い話ができないとか、ギャグが冴えないとか、そーゆう訳じゃないんです。久保ミツロウとか檀蜜とか小島慶子とか小保方さんとか確かに面白いし。

ただ、お笑いという作業には、「相手を落としたり、自分を落としたり」、ある種の捨身の姿勢がいる時があるんで、「みんな、仲良く、共感力」を重視するタイプの女子たちには、向かないんじゃないかな~と個人的に感じています。

という視点からすると、先の合コンの男連中は、「自分を高める」という、まったくもって無駄な自尊感情を守るためにもじもじしている訳で、お笑いという男の仕事を放棄しているのであります。まったくもってナメています。

なーんてコトを言うと、「じゃあ、あんたは面白い話ができるんだな、してみろよ~」という面倒くさいフリが来るわけでありますが、アレですよね、このフリには「愛」がないですよね。
「もしもスベッたならば、おいらがフォローしてやる」という、愛が。
「面白い話ができる自信のある者だけが、人に『面白い話をしろよ~』とフリなさい」(お笑い黙示録 ペンネからの手紙)

…うん?あれ?自分、芸人だっけ?違うよね。。。