shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

大審問官

「今は分かんないだろうけど、○○歳になればわかる。」
なんて表現がキライで、だってそれは○○歳になるまで反論可能性がないわけで、
「大人はズルい。」的なコトをほざいていた19歳くらいの時だ、
僕が『カラマーゾフの兄弟』を最初に読んだのは。

驚くべきことに、「○○歳になればわかる。」というのは
けっこーな事実だった。
30歳手前にして、カラマーゾフの次兄、イワン・カラマーゾフの神学論争、
「大審問官」の章が、10代の頃より「腑に落ちる」ようになった気がした。

冷徹でシニカルな思考・嗜好を持つイワンは、純粋で敬虔な三男、アリョーシャ・カラマーゾフと神学論争をする。「神は在るか否か?」っていう、アレだ。

ギリシア正教の教義はよく知らないけど、まあ、キリスト教の基本的なベースは大して変わらんだろうと思うので、そっから行くか。
キリスト教の基本的なベースになっているのは、「神との契約」。
イエス・キリストユダヤ人だったのはご存知のとおり。そして、ユダヤ人は当時(紀元前1000年から)も迫害と流浪の民だった。確かなモノがなんもないから、「神との契約」っていう確かなモノを作って、日常生活を律法でぎちぎちに固め、救済を求める。そうした「神との契約」に、愛(アガペー)を持ち込んだのがキリスト教。現に、イエスはパリサイ派(律法重視のむんむん派)をすげーディスった(と信徒は語っている)らしい。

一予言者だったイエスを、神の子まで引き上げた連中の一人が、使徒パウロだ。
彼の主張は、神の子イエスは人類全体の原罪を一身に負い、十字架にかかって復活した。だからコレを信仰せよ、ってコト。原罪とは、神の意志とは逆に行くよーに(堕落するように)人間のフォーマットが創られていて(それは設計者のエラーじゃん、と僕は思っているけど)、自分ではどーしようもないから、そんな自分を「悔い改めて」信仰しなさい、っていう思想。

信仰すれば、神の無償の愛により、死者もぜんぶ復活させた「最後の審判」の日に、争いも諍いも、さらには性別の区別もなくなった永遠の命を信徒は得る。的な。こーゆう感じのコトを、パウロはじめ使徒たちは各地にプレゼンした。

パウロの仕事でもう一つあるのが、「二王国論」。
これは、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」というイエスの言葉が基にあるのだけど、要は、世俗のことは政治が、タマシイの救済のことは教会が責任持ちますよ、っていう。

うし、戻ってきた。
ここで、イワンが問題にしているのは、タマシイの救済が教会に委任されているってコトと、愛のコト、それから自由のコトだ。

イワンは例をひく。「悔い改めれば」罪は赦される、というけれど、
じゃあ、母親の目の前で、犬に子どもをかみ殺させ、そんな場面にエクスタシーを感じる権力者のようなクソ野郎でも、「赦される」というのか?
なんの罪もない子どもの犠牲が、「神の国」実現のために必要だとでもいうのか?

そこから、本題の大審問官。大審問官は、イワンが創作した、90歳をこえる教会の首領。その首領はある日、奇蹟を実現するイエスっぽい男と対面し、告げる。「あんたはイエスだな、今さら出てきてんじゃねーよ。ばーか」的なことを。
イエスの理想(というか、使徒たちの解釈)は、なんの区別も差別もない、「神の国」での人間の解放、すなわち自由だけども、「無理。人間は自由に耐えられない。」と大審問官は断言する。
強い人は自由でも大丈夫かもしれないが、大多数の弱い人間は、権威を必要とする。権威ある統治。そして権威ある統治を1500年以上、実行してきたのは教会だ。
だから今さら出てきて、奇蹟をふりまいて教会の、人間の邪魔すんな、という。

先の例でひいたとおりの、下劣な権力者の下等な行為も。
イエスを堕とそうとする、老宣教師の信念も。
神は「赦す」。だって愛(アガペー)は無償の愛だから。区別も差別もしないから。それは原理的にすんげー無力だ。
んで、よく分からんなーと思うのが、以上のように考える大審問官の信念こそが、本気の信仰かもしれない、というイワンの注釈。
ちょっとこの辺はうまく言語化できない。

まあ、長い小説を読むことの醍醐味の一つは、そーした言語化できない領域を楽しむ、ということに尽きると思う。

さすが、「世界一の小説」である。

死んだら、「神や仏様になる」と考え、
その神様すらも死にうる、という、世界宗教の大勢からみると亜流の、
日本風にカスタマイズされた仏教・神道の世界観に生きる僕には。
「神との契約」に基づく、神vs人間の在り方を問う大審問官の章は
長らく「???」だったし、まだ当分「???」だろうけども、
年齢を重ねて、見方が変わってくるのが月並みだけど面白い。

ちなみに、『カラ兄』の主人公は三男のアリョーシャ・カラマーゾフで、
この後、敬愛するゾシマ長老の老死と、実父であるフョードル・カラマーゾフの殺害事件に直面する。先のパウロの二王国論でいうなら、タマシイの死(ゾシマ長老)と世俗的なリアルの死(フョードル)だ。
小説中、「お前もカラマーゾフだからな。」的な言い回しが何度もあるけれど、教育や道徳やしがらみなど、あらゆる後天的なモノを取り除いていった先に、カラマーゾフ的なもの(淫蕩と放蕩と遊蕩)があるのだとしたら、それに対峙してアリョーシャがとる行動は…。ってのがドストエフスキーの書きたかった所の一つだろうけども、残念ながら遺憾ながら、本作は未完だ。未完の大器だ。

今回の副読本として、橋爪大三郎『世界がわかる宗教社会学入門』のキリスト教に関する部分を活用した。
これも存外に面白い本だった。

さて、あと。。。1000頁?