shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

エレベータートーク

ビジネスの世界ではみな忙しい。ゆえに、エレベーターで同乗している時間内(1分そこそこ)で、相手に伝わるよう、プレゼンできるようになるべし!

的な、エレベータートークが、なんかキライである。
1分とかそんな短い時間で伝わることなど、表面的で大したことないんじゃね?という。

ワンピースの最新刊を読んで自省する。
そんなことないかもしれない、と。

というのは、サボ(ルフィやエースの義兄弟)が登場する4~5コマだけで、
なんだかすげー泣けてくるのである。秒速で感動した。
60巻以上におよぶ、長い任侠物語が、
きっとこの感動を呼んでいる。
エースが死んだ頂上戦争の場に行けなかった無念と、亡きエースの遺志を継ごうとするルフィの信念に殉じようとする決意。その他いろんな感情と事情を背負って、サボは海軍大将を足止めしている。4~5コマですげーわかる。伝わる。

4~5コマ…エレベータートーク、いける!と思った。

ビジネス書をみてみると、メンタルモデル、っちゅー言葉がある。
要は、仕組みとかモノゴトに対する理解度、だ。
文藝と組み合わせてみるなら、長い物語を読んだり聞いたりする意義は、
このメンタルモデルの構築にあると思っている。

いま、僕は『カラマーゾフの兄弟』を読み返していて、
ゾシマ長老が死ぬ直前に、牧師たちに昔話と説教を始めている。
説教はアリョーシャの手記の形式をとり、100頁近くに及ぶ。
なかなか死なねーなゾシマ長老!と僕は思うわけだが、
込み入った長い話を通すことで、
読者はおそらくカラマーゾフ的メンタルモデルを獲得できる。
そのカラマーゾフ的メンタルモデルを獲得してからは、
話が理解できて、すげー面白くなる。
もうね、グルーシェニカ(フョードルとドミートリーの愛人)が、ドミートリーの婚約者に対してキスのお返しをしない(社交界でのオシャレな侮辱方法)シーンとか、「やってくれたぜバカ野郎(笑)!」と思いましたね。素敵すぎます。
その素敵さは、カラマーゾフ的メンタルモデルがあるからこそ、分かる気がします。

一般に、長編よりも短編を書くほうが難しい、って話だけども、
読み手にもそれは言えると思う。

カズオ・イシグロ夜想曲集』は短編集だ。
その中に、かつて西と東にイデオロギー対立があった時代。
西側の大スターだった歌手のレコードを、こっそり東側で聴いていた音楽家の話がある。ソビエトがなくなり、この音楽家は西側の大スターと対面できるのだけど、すでにこのスターは西側の世界では没落していた。東側の音楽家にはそれが理解できない。
この哀愁感…。なんとなく分からないでもないが、おそらく完全にはわからない。

「自分の言語の限界が、自分の世界の限界となる。」とは、言語ゲームの基を創った哲学者・ウィトゲンシュタインの言葉だけども、共産主義者=「アカ!」と、敵意と侮蔑と嫌悪を込めて呼んだりしていた時の「言語」を、僕は知らない。だから『夜想曲集』の世界を構築する言語を知らない僕は、きっとほわほわ~っとした「何となく」の理解にとどまっている。

仕組みやモノゴトの理解度を示す、メンタルモデルを創ったり何だりするのには、
たぶん時間がけっこーかかる。
短編小説を読むのには、背景理解や言語世界の拡張が必要であるように、
エレベータートークにおいても、それに膨大で莫大な時間をかけていることが、
おそらく必須条件なのだろう。
話すのにも修行がいるし、聴くのにも修練がいる。

最近、若い子と話す機会が増えて、どーもズレを感じていたのだけど、
要は、このメンタルモデルのズレらしい。メンタルモデルが出来上がり途中なのだ。
ということは、僕も相当に先輩方にご迷惑を(今現在含め)おかけしていた(る)訳で。
平に。ひらにごようしゃを~。と平身低頭である。