shimy-shimizuの日記

読書会を主催しております、シミーです。文化系のモノゴトを中心に、妄想を繰り広げております。

絶対評価の喧嘩、相対評価の喧嘩

一条ゆかり先生『プライド』を読みはじめました。よーやく。

オペラ歌手を目指す気高いお嬢様タイプの史緒。恵まれない家庭環境・境遇から必死に抜け出そうとする音大生の萌。二人のプライドがぶつかる喧嘩であります。

お嬢様(それも、没落貴族的な感じ)がストライクゾーンのあたくしは、やはり史緒を応援しがちであります。
物語の序盤、イタリアへの音楽留学をかけたコンクールにおいて、史緒と萌は対決するわけですが、史緒の出番の直前に、萌は「あなたのお母さんが死んだのは、あなたをかばったからよ」的な精神攻撃をしかけます。
動揺した史緒は優勝をのがし、「プライドを捨て」て千載一遇のチャンスをもぎとった萌でしたが。。。

的な感じで、相手のネガティブ・キャンペーンを張り続ける萌と、ちっぽけなプライドゆえ周囲と軋轢を生みまくりの史緒の喧嘩は続きます。

僕は思います。
喧嘩の勝敗が、相対評価だから、
相手を陥れる。なーんてつまんねー手段が正当化されるんだろーなと。

歌手は、技術があれば人の心に届く、なんてシロモノじゃありません。
「なんかわかんねーけど、惹きつけられる」魅力といいますか、ある種の才能が要ります。そしてある種の才能を持った娘が1人いれば、衆人はその1人に注目し、その他大勢を無視します。5人も10人も一緒に「注目」すんの無理じゃないっすか。
とすれば、自分以外の、才能のある娘を追い落とす。追い落とすことにより、残った自分に注目を集める。それも勝つための手段だ。その手段をとらないのは「甘い」なんて言い方もできてきます。

人の気持ちもけっこーそんな感じかもです。5人も10人も「平等に」可愛がるなんて大変ですから、どーしても順位づけがなされ、ランキングを上げるためには、1位の本命の娘のネガティブキャンペーンをはると。

一方、絶対評価の喧嘩は、勝敗がはっきりします。

つーか、自分が強くあればいいだけなので、戦う必要すらなかったりします。

それでも戦うのは、『バガボンド』の伊藤一刀斎いわく
「最強の相手こそが、まだ見ぬ自分を引き出してくれる」からであって、
戦って自分を出し合った後は、ノーサイドです。とーもーだーち、です。

A番長「…痛っ。お、お前、なかなかやるな。。。」
B番長「…っく。お前こそ、強いじゃねーか…」
両番長「くくく…。はーっはっはっはっは!」

的なアレです。
自分のパワーを、相手にぶつけるコトによって、
新たな自分を知れたから、満足なわけです。戸愚呂(弟)のアレです。

ノーマン・フィッシャーいわく。

「自信はうぬぼれとは違う。本当に自信があれば、人はエゴに関して柔軟になる。必要な時にはエゴを活かせるが、他人の話に耳を傾けてまったく新しいことを学ぶためなら、その必要に応じて抑え込むこともできる。そして、もしエゴをうまく抑えこめない時には、少なくとも、そうと気づくことができる。自分に対してそう認めることができる。自己非難せずに自分の限界に気付くには、深い自信を必要とする」


まあ、何と申しますか、
相対評価の喧嘩は、なるべくしたくないな~、と、
天上天下唯我独尊主義の僕は思いました。

女の子の場合はどーだか知りませんが、
男子で、相対評価の喧嘩やってる奴は、たいがい小物だと思います。